大人なので判らない

君は何故書くのかと言われたら、書かなければ生きていけないのだと答えよう。

 

思春期の子供と関わるようになり、幾度となく思い出される映画がある。『大人は判ってくれない』、フランソワ・トリュフォーの名作である。彼はこれを25歳で撮った。私はこれを19歳で観た。

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両親の愛を知らずに育った12歳のアントワーヌ・ドワネル
家庭でも学校でも自分の居場所を見つけることのできない彼の行動は常に周囲と行き違う。ついには少年鑑別所に送られてしまった彼は逃亡し、一人海に向かうのであった…。

愛について考えるようになったのは13歳だと思う。つまり今の息子の年齢だ。

自分は愛されているのか、自分は愛せているのか。そういうことを、人間はとめどなく悩むわけである。どんなに「私はあなたを愛してきました」と主張しても、それが相手の受け止める、受け容れるところとなっていない場合、相手においてそれは不成立だ。それは暗いトンネルのような話であり、私の場合、そこから抜けたと思うのは30過ぎてからだったと思う。

 

簡単にいえば、私はいろんなことを諦めた。シンプルに考えることにした。

愛を信頼と考えるととても理解しやすい。愛しているか、愛されているかは確認が難しい。しかし自分が相手を信じているかどうか、それは私には考えやすい。存在を信じる、信じたい、そういうことの継続が愛だ、と考えることにした。

 

自分がどうするかにしか定義されない考えに切り替えた結果、私はとても安定した気持ちで人と接することができる。一方で、愛は様々な人に発揮される。私は沢山の人を、まずその存在を信じるところから始めているからだ。つまり、私の愛は遍在している。

 

20人の目の間にいる学生と、1人の息子について考えた場合。私は授業前は息子よりも授業のことを考える。20人の大事な90分を預かる、それは90分×20人の時間だ。人の可能性を信じ、学習を信じているので、私はいつも教室に入ることができる。これは息子をないがしろにしているわけではない。

 

その話をするために、授業日に連れていった。私が、どれだけこの仕事を大事にし、そこには愛する学生がいるかということを話した。それは君と等しく、同じ気持ちで、いや、その時間は君以上かもしれないと話した。彼ならそれがいつか判ると思っているからだ。私には大事な人が沢山いて、私には大切な場所が沢山あるんだよと話した。私は息子のカウンセラーではないので、私は私の話をし、そして、息子は息子の話をする。

 

大人は判ってくれないと、ずっと思っていた。だからこそ、息子に対して、「君の気持わかるよ、なぜならば私も昔そんなことを考えていたからね」なんて言えない。私は、トンネルを抜けた人間だから、トンネルを抜ける前の彼に、判ったなんて言わない。ただ、私は私の観ている世界を話し、彼が観ている世界を教えてもらう。

 

息子が、私以外の多くの人を、その存在を信じていけるようになる日を楽しみにしている。