知人の個展を観に行った。
春休み最終日ということで、暇そうにしている息子も呼び出した。息子は、「花見とギャラリー」に行こうと誘ったらひどくつまらなそうで、暗い顔をして現れた。
桜は近所で見たし、絵は苦手だという。
確かに、何度か美術館に連れて行ったことがあるが、息子は絵だと早々にギブアップしてきた。でも、それは、彼が絵に何か意図を探し、答えを求めてきたからなのかもしれない。
今日は、彼にとって、「ギャラリーで個展を観た日」になった。作家が在廊するだけで、その絵は全く異なって見えるというのは、大学生のとき実感済みである。息子は、それは それは楽しそうに、ギャラリーから帰りたがらなかった。彼には好きな絵と、飾りたい絵が違うという気づきがあったらしい。そして、気になる絵と気にならない絵があるということも。
彼は今まで、絵に対してせっせと、何かを探していたのだろうと思った。わからないことだらけの鑑賞者 は、描き手を質問攻めにしたかったようだが、描き手もまた、描く中でわからないものを探し、描きながら見つけ、また生成しているようにも想う。
言葉にならないことがあるから、描き続けなければならない。踊らなければならない。全てを言葉に回収しないことも、私には大事なような気がしてしまう。
帰り道、彼が非常に楽しかったというので、誘ってよかったなと思いつつ、私はひどく疲れていた。答えのある世界の外に、どうやって彼は早く出ていけるのか。それを考えると、少し暗澹たる想いもするのだった。