映画に魅せられて

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昨日は、授業が終わった後、すぐに映画館に行って映画を観た。水曜日はチケットが安いからということもあったのだけれど、昨日は朝から天気がよくて、どうしても映画を観たくなったのだ。観たのは「海よりもまだ深く」。

終わった後、会場が拍手に包まれて、何事ぞと思ったら、その日は監督と音楽(ハナレグミ)とのトークショーがある日だった。そこから1時間ほど、フロアとの質疑などがあったのだけれど、私はちょっと想いがこみ上げてきて、手をあげる勇気が出ないままだった。

 

是枝監督は、私が人生で最も影響を受けた日本人監督で、大学3年の時、東大駒場の900番教室に、いろんな人がゲストで来る授業があって、そこで話を聴いてから、作品のつくりかたも含めて好きだ。それから映画美学校に行ったので、やっぱりあれは大きな契機だったと思う。

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彼の映画のつくり方は少し独特で、そのつくり方にどれだけ勇気づけられたかわからない。多分彼がドキュメンタリーを撮る仕事から来ていることもあるんだろうけれど、彼は、彼自身とずっと向き合っていて、いつも一つの大きなテーマで撮り続けているような感じがする。

 

この映画も、まずワンシーン書いて、それから、そのシーンの前のシーンを書いて、それからそこに流れていてほしい曲を考えて、その曲がテレサ・テンだったから、その中のワンフレーズを先にタイトルにして、後は他を頭から書いていったんだそうで。

 

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人生なんてそんなもの。

タイトルを決められて、後はひたすら走っていく。

「こんなはずじゃなかった」と思う50歳。そういう人も沢山いるのかもしれない。

でも、今のところ、私は、「こんなはずじゃなかった」と思うことがない。だいたい想定の範囲にあるというか、そもそも、「こんなはず」を考えていないようだ。多分、私の両親は、私のことを「こんなはずじゃなかった」と思っているだろう。兎角、両親は発言に「べき」が多い。

しかし、あるものをそのように受け止めた方が毎日が楽しいんじゃないの、と私は思う。沢山の「べき」が、彼らを成立させてきた、それ、とっても昭和っぽいなと思う。

 

私は、かつて人からよく、勝手な人だとよく罵られてきたのだけれど、今は自由な人だと言われることが多い。本人、さほど変わったつもりはないけれど、勝手もせっせと続けていると自由と呼ばれるのだろうか、なかなかシュールである。

 

映画の主人公は小説家を目指し探偵稼業しながらギャンブルがやめられず妻子が出て行ってしまったという、所謂だめんず。しかし、小説を書き続けたくてという気持ちは痛いほどわかるし、それでもギャンブルがやめられないのもなんとなくわかる(私はやらないけど)。

 

かつての私は映画の脚本を書きたくて仕方なかったのだけれど、それを止めた際に周囲から何を言われるかこわくて、友達付き合いができなくなたった。「夢だ夢だと言っているのに書かないじゃないか」と恋人に言われたときには、かなり焦った。その人はロボットを作っていたので、私が何故書かないかわからなかったのだろう。しかし、書きたくても何も書けないこともあったのだ。人生経験が足りないので、これ以上何も書けそうにないと思って、あの頃の私は筆を置いた。

 

書きたいのに書けないとき、何をするか。

そういう時は描けることを探す。描けるところから書く。

 

是枝さんが昨日、トークショーの中で言っていた。まず、線香の灰の掃除をするシーンを書いたと。それは、彼が実際にしたことを、夜中にカップラーメンを食べた箸と爪楊枝で行ったその行為と、残った線香が火葬場で拾った骨に思えてきた、そのことだけを、深夜、ノートに書いたと。

 

私は、人生の描けるところから描いていった結果、大学院に進み、沢山の人に出会い、研究という素晴らしい経験に恵まれ、大学で働くことになった。そんな感じで、人生を生きている。まだ最後まで書ききれてないけれど。きちんとシーンとシーンは繋がっている。

 

今、私がまた、猛然と映画を見ているのは、今度こそ、書きたいと思えるモチーフがあるからだ。その研究を最終的にどんな論文にするのかわからないと人によく言われるけれど、それはある意味、当たり前で、私は研究を通じて、最終的には「映画」を撮りたいとどこかで思っている。「映画」、あるいは世界観。

 やっぱり、やってることは、思想なのかもしれない。