卵構造に思うこと

一昨日の朝、お風呂に浸かりながらずっと、卵料理の難しさについて考えていた。

検索してみるとこんな記事が出てきた。

www.lifehacker.jp

読んで、個々の料理が難しい点は書かれていた。

 

しかし、本質的な難しさはどこにあるか考えると、卵には構造があって、それが特殊だからではないかと思った。卵には、「黄身」と「白身」という、特性の異なる2つのパートがある。卵料理は、これを分離するか、混合するか、あるいは別々としてそのまま理解するかという方法をたどるように思う。

 

何故、卵構造が気になったかと言えば、それは私が今、読書会で読んでいる本が、参加についての本だからだ。

先週の読書会では、参加者からいくつかの疑問点が提示された。全てではないけれど挙げておく。

 

・コミュニティを共同体と訳すことに対して筆者が感じる違和感とは何か

・文化参加の事例あれど、政治参加のあり方について
言及が多くないのは何故か

・そもそも政治的とは何か(予算が大きいものとそうでないもので、住民が参加できるレベルかそうでないかが分かれてしまっている現状があるのでは)
・参加をめぐる想い(参加はこわい、参加は疲れる、楽しいならいいけど、目的があればいいけど、きちんと場が設計されていればいいけど、誰がいるかわからないのは案外大丈夫)

・「参加なくして未来なし【序章】」の傲慢さ

・「それは好きの搾取です」に対する反論はあるか

 

この本を読み進めて行くと、いくつかの疑問が湧いてくる。おそらく、参加について考えるとき、主柱となるのは「政治/権力」であり、「教育−学習」だろう。前者を軸にするか後者を軸にするかで描き方は大きく変わってくるわけだが。

 

さて、構造の中でどこまで役割は規定され、分離され、分担されているかについて。

コミュニティにおいて、構成員は、「白身は白身であり黄身は黄身でしかない」卵構造だろうか。白身は白身として参加し、黄身は黄身として参加していくのか。

殻があるとするならば構造の見えは、クリアだ。ゆでたまごの断面を思い浮かべたらいい。

 

しかし、私たちは、卵の殻を割ることができて、その先には様々な、黄身と白身の在り方がある。例えば、混ぜてしまった場合、私にはもう、黄身と白身とを言い当てることはできない。両者は流動的だ。そして、卵は、往々にして、割られるのだ。

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