誘う口実
これは、エミリア・ロマーニャ式のコトレッタである。びっくりするくらい美味しい。しかしカロリー爆弾だと思うので1人で食べることは薦められない。
通常のカツレツに生ハムとチーズをかけるものだ。私はこれを昨年食べたとき、息子に食べさせたいと思ったので、帰省するタイミングを見計らっていた。それと同時に、イタリア料理に、高級で堅苦しいというイメージを持つ父にも、食堂のような、母の味のような、温かいイタリア料理を食べさせたかった。父が韓国を好きなように、私は、ヨーロッパが好きなのだ。
しかし、私は、昨年末、出張前、息子をどのようにして店に誘うか、うまい方法がわからなかった。1月9日は暇か?食事をしないか。そう聞いた。
息子は私に、「何か、話があるの?」と言った。「特に話はないが、私は8日まで海外出張だし、君は10日に東京を離れるので、会えるのは9日しかない。」
息子は、理由がわからないと言った。まあ、当然だ。
そこで、コトレッタの写真を見せた。
「これを食べさせたいけれど、もしかしたら品切れかもしれない。それは物事には100%というのはないので、できるだけその料理があることを願うけれど、無い場合に私を責めないで欲しい。それでも行きたければ連れて行く。」と言った。
私には、息子や両親を、連れていきたい場所があった。それをどう説明していいかわからなくて息子には、これが食べられるので予定してほしいと言った。食べさせたいものがある。それについて説明がしたい。なぜそれを食べさせたかったのか、話したい。それは、私が何をしているのかということに非常に強くつながっているのだ。
このレストランがあった場所は、幼い私が人生で初めて珈琲を飲んだ場所だ。ここには昔とても素敵なカフェがあって、そこは私が、母が本を読む時間を美しいと思ってきた場所だ。父もきっと、覚えているはずだ。
そこには、今は違うレストランがある。しかし、やっぱり素敵な人生と料理がある。私はそれに運命を感じている。なにせ、このレストランの料理には、愛があるもの。父も、きちんと受け止めてくれたみたいだ。
さて。ここから本題に入るけれど。
ハワイにいたって時間はあるんだし、聞いてくれればいいのにと思ったけれど、そのくらい遠い存在に思われているのか、はたまた、モデルケースにならないと思われているのか。やってきた仕事の動機なんて、大抵はひょんなことだ。そのひょんなことを恥じることも悔やむこともない。それを掴み、それを続けるどうかは (君は横文字ばかり使うなと言ったので) 、あくまでも、自身の選択であり意思なのだ。
大学院の学費稼ぎのつもりの予備校教師が
どうにも楽しくなっちゃって
というのが本当のところ。
それ、最高じゃん?
いいね。そういう人生。
楽しいことを見つけたのならよかった。
私のために、研究を諦めたのでなかったなら、本当によかった。
(それにしても、親のことなんて、全然知らないな。それでいいけど。)
私は、両親が面白くて素晴らしい人生を送っていると、そして死ぬまでそれを続けてほしいと思っているし、そういう主張を根底に持って、研究をしている気がする。こんなに好き勝手しているようで、くだらない十字架を背負っているのかもしれない。辻褄があっていれば、それでいいんじゃないかな。