『校閲ガール』と頭の良さ

最近見ているドラマの一つが、『地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子』である。

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校閲という職業への興味やキャストへの関心がきっかけだったが、回を追う中で、私の関心は、主人公河野悦子がいかに校閲に熟達していくか、そして彼女の並外れた学習力に移った。彼女は、好きを極めて、ファッション誌に書かれる内容を暗記しているという設定だが、校閲に着任後は、自力の取材方法を交え、執念深く対象となる文章にまつわる事項を学んでいく。周囲の人が彼女に惹かれるのは、彼女のまっすぐ没入する姿と行動力、そして、観察眼、知的探索力ではないか。「お洒落していると頭が悪そう」という世間の通念を覆し、彼女は「頭が良い」のである。

 

私は「どんな人が好みですか?」と聞かれると「頭の良い人」と答えることにしている。年齢も職業も容姿も性別も、特にこだわりはないので、その人次第ということになるが、これは譲れないというのが、話していて楽しいかどうかということだ。そのためには「頭が良い」ことが必要だ。このように答えると、「あなたの言う『頭の良い』の定義は何ですか?」と聞き返されることがある。

 

頭の良さにはいろんな良さがある。一般的に、回転が良い、ということも勿論含まれるけれど、そうではないものも私には「頭の良い」に入っている。

私の言う「頭の良い」は、専門的に言うならば、まず第一には、ガードナーの多重知能理論が近いと思う。

MI:個性を生かす多重知能の理論

MI:個性を生かす多重知能の理論

 

人間には8つの知能(言語的知能・論理数学的知能・空間的知能・身体運動的知能・音楽的知能・対人的知能・内省的知能・博物的知能)が備わっており、それぞれが作用してその人の個性を形成しているとする考え方である。この8つが十分なのかはさておき、知能とは何かについて、ペーパーテストで測定を考えてきた流れからすればこの概念提示が1983年になされたことは、斬新だったはずだ。そして、一般社会にこの考えがどの程度浸透しているのか、私にはよくわからない。少なくとも、12年前、大学院に入る前の私はこの理論を知らなかった。

 

第二に、私は「『学び方を学んでいる』(Learing How to Learn) こと」人が、頭の良い人だと思っている。これを識っているひとは、学習が転移するので、迅速にexpertise すると思う。まさに、学びが増殖し創発する感じだ。

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校閲ガールこと河野悦子は、複合的な知能を持ち、かつ、ファッションを学ぶことを校閲を学ぶことに転移させている。このような成長という結果を見る前に予見し、彼女を社員面接で起用した上司の目は素晴らしい。彼女を採用した理由が第一話で語られるが、それは、丁寧な観察眼の上に成り立つ。私は、このドラマに描かれる上司の一挙一投足に、教育とは何かについて考えさせられる。

 

一方、学校教育や学校外で、どのくらい、多重知能は「結果が出る前に」受け容れられているだろうか。ここで、結果とは何かということになる。実際には、人生は長くて、その過程の中には小さな結果が連なっている。この小さな結果の中に、自身で、あるいは他人が「良さ」を見いだせるかどうかは、相互のしぶとい観察と記録にかかっていると思う。奇しくも「人が育つ・人を育てる」ことと「校閲」という仕事が、「よく観る」というフックで連結されるのも、このドラマの重層性だろう。