私にとって「良いシンポジウム」

早稲田大学総合人文科学研究センターが主催している国際シンポジウム「人文知の明日を見つめて: メディアの刷新と知の変貌」に行った。他の予定との兼ね合いで、国際となっている所以であるエルキ・フータモ氏の講演は聴けなかったのだけれど。

私はめったに、こういうものに行かない。座って長い時間じっと人の話を聴くのが得意ではないというのもあるし、単にスケジュールが合わないというのもある。それでも、今回は、たまたまスケジュールが合ったし、ドミニク・チェン氏に興味を持っていたので、それでもう少し話が聴けるチャンスがあればと思っていた。

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術

ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術

  • 作者: ラファエル A.カルヴォ& ドリアン・ピーターズ,渡邊淳司,ドミニク・チェン,木村千里,北川智利,河邉隆寛,横坂拓巳,藤野正寛,村田藍子
  • 出版社/メーカー: ビー・エヌ・エヌ新社
  • 発売日: 2017/01/24
  • メディア: 単行本
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(フルでは楽しんでいないけれど、そもそも座組としての)セットリストにちょっとそそられるところがあったのだと思う。実際、情報収集にとどまらずいろいろなことを思ったり考えたりすることができて面白かった。

 

広報文の一部から抜粋するとこんなことが書いてある。

ITやインターネットの発達は、自由に分割し、組み合わせることができるモジュールの集合体としてテクストを捉えることを可能にした。若者は、個々のモジュールをデータベースとして内面に蓄え、それを自由に連結してテクストを読む。文学・マンガ・アニメ・映像の垣根を越えて、ストーリーや思想や文体よりキャラクターを鑑賞する読み方は、そうして生まれた。それとともに作品を通じて人間や社会の真実に触れること以上に、作品を通じてのコミュニケーションが重要視される受容の仕方が生まれている。

それだけではない。さらに言えば、人工知能の発達は、人間の「知」そのものの認識の更新を迫っている。

こうした動向は、文献学を中心に発展してきた人文知が、大きな転換点にさしかかっている、と言う問題意識に支えられている。われわれ「知」はどこへ行こうとしているのだろう。そして、われわれの「知」は変貌を遂げつつある世界に何ができるのだろう。

 

行くと、案の定、スケジュールは倒れていて、前の講演が延びたのかなという感じになっている。自分が文学部生だった頃を思い出す。文学部というのは、講演は延びるのが一般的で、私はそうではないところに来て久しいので懐かしい。学生らしき人たちが運営手伝いをしていて、院生の発表のものかなというレジュメのようなものが教室に置かれておりそれも懐かしい。思えば遠くに来たものだ。

 

ドミニク・チェン氏の講演ではいろいろな彼の来歴、仕事を知ることができたので満足した。そして彼のプレゼンテーションはcoolで、紳士的だった。

その後、初めて東浩紀氏を生で見た。チェン氏とは対照的なプレゼンテーション形式だったけれど、そこもまた焼き付くところがあった。彼のような隙を与えないプレゼンテーションを聴く度に、どこか集中できない私は勝手に他のことを考え出してしまう。

的確に届けていくのは、スライドを使って説明するスタイルのはずなのに、文学部的な原稿を使った語りというのは、その中で思考が遊んでいく感じがあり、読書に似ている。情報の運び手としてではなく、知の触発者という感じだろうか。(よく考えたら当たり前だ。本人の朗読に近いわけだから。あるいはラジオのような感じなのかもしれない。)

 

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

 東氏は、かつて著作の中で、デリダの「誤配」という概念を紹介していた。「誤配」とは、あることを目的としながら他のところ届いてしまうという概念である。この考えは大学生だった私の心を鷲掴みにしたわけだ。

 

今回の講演の主軸は、「誤配」の可能性が面白いと思っていて、それに着眼して今いろいろなことをしています、という話だったと思う。「真面目」/「不真面目」、「友」/「敵」というような対立ではなくその中間層と反復、というフレーズで締めくくられた(時間が無くなったので強引に)。「贈与」「交換」「シェア」「オープン」「公共性」といったものは同様の価値観に基いているが、そういう流れで起きてしまうことや、起こしていけることに興味があるように見えた。スマートな何かというのと反対向きで、でもAIが誤配するとややこしくなるのかなとか、Facebookのこととかと絡めて妄想していた。

thebridge.jp

私は彼の活動をそんなに今は追っていなかったので、「ダークツーリズム」というのが当時議論していた思想から出発しているのだということを今回の講演で知ることができ、あらためて『ゲンロン』にも少し興味が沸いた。

私は彼ほど「誤配の可能性」に期待しているわけではなく、ある種「メインで伝達したいもの」があって副産物としての何かを興味深く思っている程度なのだと思った。それが私が「芸術」ではなく「教育学」を選んでいるからなのか、またはその逆か。それとも大学院教育を受けた結果なのかはわからない。因みに彼のメッセージの発信は、逐一概念を説明するし、最後に論旨をシンプルに復唱するというスタイルで、誤配が起きる可能性が排除されているものだった。

 

その前に聞いた、ドミニク・チェン氏の講演のテーマが "What should AI decide and not decide for us?” というような問いかけで収束されていき、その後に東浩紀氏の講演を聴いた。最初はどうしてこういう座組なのかなあと思っていたが、なるほど、全く違うところに立っている人(立場も含め)ということで、ANDすると、脱線が生まれ、勝手な深読みも生まれていくのだろう。そこまでを含めてデザインしていくという感じが、良いシンポジウムかどうかの分かれ道なのだと思う。シンポジウムの醍醐味ってズレ感なんじゃないかなと。次の予定がありパネルディスカッションの前で失礼してしまったのだけれど、きっと面白かったのではないかな。

 

教育学という専門性とあまり噛み合わせがいいのかわからないけれど、私はちょっと意図がすぐには読み解けないような企画が好きだ。わかるならそこに行かなくても良い気がする。それは一般的にウケルのかはわからないけれど。

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