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「ワークショップ」とインターネット

雑感です。これは論文ではありません。単なるエッセイなのでそのあたりはご容赦ください。ぼんやり考えていたことを忘れないための記録として残します。

 

私はワークショップ実践者のデザインにおける熟達で博論を書きました。10年程度をワークショップに関する研究をしてきたことになります。博論後は少しそこからピボットターンして研究を行っているわけですが、根本的には「ワークショップ」の根底にあるプラグマティックな考え方に興味があります。

森玲奈(2014) 日本におけるワークショップの展開とその特質に関する歴史的考察− プラグマティズムとの関連性に着眼して. 教育方法学研究, 39, 49-58 

ワークショップとインターネットについて考えていました。東大では、最近、数百人が同時にワークショップできるシステムが開発されました。

http://gacco.org/gaccatz/

www.nttdocomo.co.jp

既に先行研究では、

Gibson, C.C. & Gibson, T. L.(1997)Workshops at a Distance. New Directions for Adult and Continuing Education, 76, 59-69

において、遠隔ワークショップの可能性が指摘されており、インターネットとワークショップについて議論が本格化してくると良いなと思っています。

 

ここで、ワークショップの定義ですが、よく読まれている書籍の一つであろう中野民夫氏の『ワークショップ』では、下記のように定義されています。

講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加・体験して共同で何かを学び合う/創り出す、新しい学びと創造のスタイル

ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

ワークショップ―新しい学びと創造の場 (岩波新書)

 

 

しかし、この書籍刊行から既に15年が経過しており、「新しい」という部分について疑問が残るため、拙書『ワークショップデザインにおける熟達と実践者の育成』では、下記のような定義をしました。

他者との相互作用の中で何かを作りながら学ぶ学校外の参加型学習活動

ワークショップデザインにおける熟達と実践者の育成

ワークショップデザインにおける熟達と実践者の育成

 

 

私がこの他で興味深いと思っているのは下記の言説です。

ワークショップとは参加者が受け身ではなく、積極的に関わる研究集会のことである。英語で「workshop」とはもともと「作業場」の意味で、転じて「研究集会」を意味するようになった。講師が一方的に教育を行う講習会とは違って、参加者も又自分の知識や体験をもって積極的に関わることが期待される集会である。文化活動のような創造的なテーマを追究するためには、ワークショップは欠かせない方法であると言える。

(『社会教育』(1994)特集:Workshop 体験的参加型学習とワークショップ)

 

ワークショップというと対面でやると思われがちですが、今まで見てきた定義の中に、対面で行うという要素は入っていません。ですので、今後、非対面のワークショップをどのようにデザインするのかということも、試行錯誤されていくと思います。

 

少し話が変わりますが、私は、料理ブログをやっています。

harinezumi-recipe.hatenadiary.com

これがなぜ「調理室」という名称か、勘の良い方は既にお気づきだと思います。100年前の教育哲学者、ジョン・デューイの『学校と社会』の中に出てくる、実験学校のモデル図の中に、「調理室」が出てくることへのオマージュです。

学校と社会 (岩波文庫)

学校と社会 (岩波文庫)

 

 

f:id:hari_nezumi:20160717004359p:plain

 「調理室」をオンラインで開くことで、多くの気づきがありました。そして、それは「実験学校」あるいはデューイスクールを、現代的文脈において捉え直す思考実験となりました。

 

デューイは、カリキュラムの中心にOccupation を据えることを主張しています。Occupationとは、「厄介で、忍耐を要する、ただ結果を得るためだけの単なる手段にすぎないような活動」としての Labour(労働)ではなく、「狭い功利主義的な」職業的訓練とも異なる、とされます。

学校で追求される典型的なオキュペイションは、いっさいの経済的圧迫から解放されている。その主眼とする目的は、生産物の経済的価値にではなしに、このような狭い功利的なものからの解放、このような人間精神の発達可能性に対する開かれた態度こそが、学校におけるこれらの実践的活動を芸術の盟友とし、また、科学と歴史を学ぶ起点とするのである。

デューイは、「典型的な仕事」を子どもたちに取り組ませることによって、こどもを民主主義社会を支える一員として育てようと考えました。

 

私は、民主主義と資源共産(あるいは、資源アクセスの透明化)が両立するのかについて、言明するのを躊躇しています。しかし、少なくとも、実験学校の中で試行された分業的思想(共産的思想とは言いません)には共感します。ただ、実験学校は社会の縮図として閉じているので、最早閉じていない現代社会とは異なりますので注意が必要です。※閉じられない現代に置きなおし考えるならば、分業だけでなく創業という思想が追加されてもいいかもしれません。

 

もし、インターネット上に、デューイスクールがあり「調理室」や「工作室」や「図書室」などがあったらどうなのかということを考えてみます。Communityは地縁・血縁から別のレイヤーに行ったというバリー・ウェルマンらの「コミュニティ解放論」を考えると、「学校」も地理的・時間的制約から解放されることも十分ありうるのではないかという考えを持ちました。それを既存の「学校」と区別して呼ぶならば、「実験的学校」と呼べばいいのかもしれません。同期でワークショップをするのではなく非同期でワークショップをデザインすることもできる。これは「実験的学校」についてもなおのことだろうと思います。

 

昨今、ワークショップには、質保証意識、人材育成方法の確立により、形式の安定化が進んでいると思われます。しかし、「ワークショップ」は、本来、当時代の課題を先進的かつ現実的に解決する過程、すなわちプラグマティックな営みであったと考えられます。私は、教育手法としての一定の期待とフォーマル化に異議を唱えることはしません。しかし、ワークショップの本質的可能性がまだ現代にあるとすれば、それは、地理的制約・時間的制約から如何に人間を解放するかという点で「ワークショップ」には何ができるか、というあたりかな、と思いました。

 

 

【過去の関連記事】

■コミュニティ解放論

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■コミュニティと学習

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■「調理室」と学習

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