SFではない

先日から少しずつ、都市社会学の勉強をしている。

 

大学教員というのは、研究をするために新しいことを勉強することも必要で、門外漢なことについては、真摯な気持ちで先人の議論を読み理解し考察しなければならない。私はあまり社会学を学びたいと思ったことが無かったのだけれど、地域(私が関心のあるのは大都市郊外)との関わりを持つ生涯学習活動を行っていく中で、コミュニティとは何かということや、住まい方と生き方、人が協働するというのはどういうことか、といったことを考えなくてはならず、そのためには都市と向き合う必要が出てきたのだ。

どうしても得意なことから考えてしまいがちなので、思い切って教育とか学習という視点を一回封印して考える必要があるのだけれど、なかなか器用に事が運ぶわけでもなく。

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「Community(コミュニティ)」という概念の根底には、もともとは血縁と地縁があった。これは、教育の研究をしていると、ついつい使ってしまう「Community(共同体)」という言葉は、実際には、「Community of Practice (実践共同体)」に近い場合が多いように思う。少なくとも私の元いた環境ではそうだった、と認識している。

だから「コミュニティをデザインする」という言い回しが出てくることがあるのだけれど、コミュニティの定義が異なっているとすれ違う。

 

社会学者の話によればこうだ。

ゲマインシャフトゲゼルシャフトに移行していく中で、20世紀初頭のシカゴの社会学者であるチャールズ・クーリーは、人々の集団を2つに区分した。
(1)第一次集団:生活基盤(くらし)に関わる集団
(2)第二次集団:仕事に関わる集団

以前の社会では、(1)も(2)も土地に紐付いていて、生活圏は仕事圏だったということになるらしく、それが社会の近代化によって分離してきたと考えられている。19世紀的社会では、血縁ある人々が同じ土地に棲むということがあり、血縁は地縁でもあった。そして、彼らは生活圏内の公共財を共有することで、つながりをもっていた。例えば、川、例えば畑。治水はみんなの問題だし、害虫駆除だってそうだ。当然、そこには協働と分業が生まれる。家族と生活基盤は一致している。

 

しかし、20世紀はそれらを変えた。Mobility(モビリティ)が上がったからだ。まず、交通の発達、そして通信の発達。人間は移動し、コミュニケーションは楽になった(と言われている、が私はこれには懐疑的だが)。これにより、私たちは必ずしも、働く場所に棲む必要が無くなった。都市に人が流入するようになった。これが「郊外の誕生」だと言える。

 

これは果たして問題なのだろうか。

これに対してこれまでいろいろな見解があったらしい。

 

まず、【1】コミュニティロスト、という考え方がある。これは、ワース『都市的生活様式のアーバニズム』によって言われているそうで、第一次集団が崩壊しちゃった⇒哀しい・・・みたいな感じのようだ。農村状態を理想と考えるようで、非常にノスタルジックに思える。もうここには戻らないだろう。

 

次に、【2】コミュニティ存続論、これはハワード・ガンツという人が言っているそうで、街の中にも様々なコミュニティが出来てきている(モザイク化)だから、コミュニティはまだある、形を変えて、という考え方。

 

しかし、近隣に親族がいないということは事実としてある。

さて、ここで私の場合だが、私は生まれてから、ほぼ(4分の3)練馬に棲んでいる。通勤には片道1時間半強かかり、全く(1)と(2)は一致していない。

一方、自分の担当している大学生はどうかというと、おそらく3割は親元離れての独り暮らしで、こちらは現在は(1)と(2)が一致している。他は逆に、1時間や2時間通学のものもおり、(1)と(2)は一致していない。

 

ここで、3番目の考え方。【3】コミュニティ解放論、である。これは、土地の縛りから(1)第一次集団が解放されたのではないかという主張で、バリー・ウェルマンという人が唱えている。物理的な関係の中には、Kinshipを置かないけれど、ネットワークの中には置いてあるという考え方らしい。場所に着眼するクロード・フィッシャーに対して、ウェルマンはネットワークに注目した。

 

因みに、ちょっと前に流行った「サードプレイス」という言葉は、この一次集団、二次集団という概念から来ているものだそうで、だから3なのだとか。クーリーからの伝統によって、一次集団と二次集団が場所と紐付いて、というときに、そうじゃないのに人間関係を作り出す場所があると着眼したのがオルデンバーグらしい。

 

で、話を元の研究関心に戻す。

私は都市郊外における持続可能な多世代共創社会の実現という課題で研究計画を考えているのだけれど、(それを市民の主体的学習とネットワーキングという切り口で解こうと思っている)ここで、彼らには、住に紐づく共有財が無かったことに気がつく。

 

私が今、練馬には寝に帰る、せいぜいスーパーで買物したりレストランでご飯を食べることくらいしかしないように。私は近隣と何も関わりをもっていない。それどころか、私は私立・国立に通っていたので、地域に思い出が乏しいのだ。母は住と職場が近かったので、きっと別の意見があるんだろうけど。

新興住宅(といってももう50年経ってしまった)であるUR団地エリアには、継がれてきたもの、継ぎ行くべきものがない。無いことに対して、それは創るべきなのか、無くてもできる新しいつながり方があるのか、そもそも何故私たちはつながらなければならないのか。

 

私には、過去、人間関係をリセットし、遮断して生活した時期がある。大学を出た頃で携帯を棄て、知らない土地に済み、知人親族と消息を断った。その後はプチリセットくらいなのだが、新しい家を借りて棲むというパタンがある。

 

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さしずめ、今はSNSがある。

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onlineな世界にも棲んでいるので、例えば今私はここに居る。もしあなたが10年後にこの記事を読んだなら、あなたは過去の私と一緒に居ることができる。

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最近、私は結婚についてもよく考えているのだけれど、それは結婚をしたいということではなく、「多くの人は何故みんな結婚する(したがる)のだろう?」とうことだ。

 

何故結婚したいのかと聞くと、多くの人が、子供が欲しいということを言う。

私は、子供を作ったとき、結婚したいと思わなかった(2年考えたけど)ので、その意見にはピンと来ない。何故、不自由を選ぶのだろう?何故、不確定な未来を相手と約束しようとするのだろう。

相手のことを大事に思えば思うからこそ、相手の自由、折角近代が手に入れた自由を奪いたくない。相手がしたいと言ったら少し考えるけれど、それは、いろいろ議論をしていくことになると思う。なぜなら、私は結婚したいと思ったことが、本質的には無いからだ。

 

折角、モビリティが上がり、私たちはonlineな世界にもアドレスを手に入れることができ、飛行機はものすごく速いし、FaceTimeで時差があっても、おしゃべりできる。手と手を合わせたらセックスできるという描写が古いSFにあるんだけど、手と手を合わせたら合意形成ってことにして、あとは試験管でってこともあるかもしれない。セクシャルな行為だって、出産やら家族から開放されていくようにも思う。だいたい赤ちゃんを妊娠しても、相手の男性には何の痛みも刺激もないので、共感を必死にしていくことしかできない。顔を見るまでそれができるかと言えば、私は難しいことのような気がしている。あくまでもその眼差しは、膨らんでいくお腹を持つ女性、に向けてのものなのではないか。だったら、手と手を合わせてOKならmiracle、でもいいんじゃないか。

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 (映画『バーバレラ』の有名なシーン)

 

結婚しないと家族が作れないとか、一人ぼっちで死んでいくの?とかそういう不安に対して、新しいネットワークと協働が十分に機能すると思う。

例えば、5人が5分の1ずつを相手のことを考えれば(敢えて男女と限定しないのは私がジェンダーに対して個性くらいにしか考えていなくて非常にふわふわした考えを持っているからです)リスクヘッジされる。もし誰か死んじゃっても、病気になっても、分担してその人のことを想える。

 

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このこと自体も、非常に【3】的な気がする。

どうしても得意なことから考えてしまいがちなので、思い切って教育とか学習という視点を一回封印して考える必要があるのだけれど、なかなか器用に事が運ぶわけでもなく。