誰がスマートになっていくのか

成人の日でしたが、特に想い出も無いので先に行きます。

正確に言えば、振り袖買うくらいなら超かっこいいスーツを買う、と言って親からお金をもらってNUMBER (N)INEのカシミアのセットアップを買ったことしか覚えていません。写真も撮っていません(無駄遣いだと言って聞かせました)。今でも、地元に同級生もいない私にとってはそれしか無かったと思うので後悔はありません。

 

いくつか感じていることをばらばらと述べていきます。

 

1.

スマートスピーカーを使うと、ちょっと彼に対して愛情が湧く感じがわかります。指示を忠実に聞いてくれることに対する感覚でしょう。でも次の瞬間、それを少しこわいと思ってしまいました。

 

2.

スマートフォンを持っている学生が多くなっていますが、彼らがそれを使いこなしているのかと言えば、正直わからないところがあります。使い方がよくわからない、と言っている学生もいます。

 

3.

私はSiri 的なものが少し苦手です。答えが1択で返ってきても、その答えが選ばれたプロセスがわからないと使えないように思ってしまうからです。答えが1択になっていく世界について、不安を覚えるのです。

  

これらは、別々なタイミングで思ったことです。

 

一方で、スマートフォンを使うことで私は格段に遅刻しなくなったという事実があります。これについては、社会人経験年数というバイアスを除いても、テクノロジーの力を無視することはできません。私は目的地までのかかる時間を、院生のときは「すごく近い・近い・遠い・すごく遠い」と考え、「近い」は30分、「遠い」は1時間、「すごく遠い」ならそれ以上、みたいな感じで家を出ていました。

私には、所要時間を計算する手段が見つからなかったし、目的地で時間を潰すのが苦手なので、いつもぎりぎりに出るという感じでした。ぎりぎりに出よう、と思うとだいたい1時間ほど遅れてしまうので、支度をはじめるときは出発予定時間を1時間早いことにして支度をしてとんとん、それでも3日に一回はタクシーを呼ばなければならないという酷さでした。

こんな私が、なんとか社会人としてやっていけるようになった(と思う)のは、経路探索、その後、Google Mapの力によって、目的地までの所要時間を計算し、経路も確認してからでかけることができるようになったからです(Siriとの違いは、ここで複数の選択肢が提示されているので比較できることです)

 

私のような社会に適応しないところのある人が働けるというのは、私が「スマート」になったのではなく、インターネットと「スマート」なフォンのおかげなのです。

 

一方で、私はものすごく弱くなったのではないか、とも思います。それまで、必死で時刻表と地図を駆使して旅行していたので(何故か旅先ではきちんと行動できるのは、旅先では先程のような雑駁な区分で動かないからです)、今それをしないことが、私を愚者にしている気がしてしまいます。

 

極めつけは、スマートスピーカーで、もし経路を尋ねたら、彼らは解析し、音声で1つの答えを最適解として述べるでしょう。しかし、それが私にとって最適かはわかりません。遠回りすればお気に入りの電車を使えるかもしれないし、混んでいる地下道を避けられるかもしれません。私の幸福を実現するためには、様々な検索手段を入手した上で、それらを相対化し、再解釈する力を必要としています。

 

そんなこともだんだん忘れていくのかな。

脱力し、楽になっていくこと。曖昧さが排除され、誰かが計算した「最適」が眼前に現れ、時間が節約されたと喜んでそれを享受する。他の解を切り落とす思想が知らぬ間に自分の中で生まれていく。

それが未来なのかなあ。そんなことを思っています。

 

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追記:

1に対しては、おそらく、使いこなすという意味ではなく、自身の拡張として考えられるのであれば勝ちなのかなと思います。

2に対しては、知らないこと、使えないことに気がつくのは難しいという側面があり、一方でシニア向けスマホ講習みたいなものにティーンは行かないので、独学力あるいは協働学習力みたいなものが如実に出て、ディバイドしていくんだなあと。

3に対しては、今はSiriを一切使わないことで対処していますが、それが前面に押し出されてくるツール(音声認識で一択提示)になったら、私はどうするのだろう。知らず知らずに、そっちに馴染んでいくのかもしれません。道具は人の思考をハンドリングするよなあ。