大学とはどういうところか

2015年06月 - Diary - みしょのねこごや

を読んで。直接の感想ではないのだけれど連想したこと。

 

私は昨年の秋に私立大学へ転職した。

研究を主業務にしていたのとは変わり、大学における教育力とか教員の力量向上とか、そういうことに関わる部署で働くようになって9ヶ月が経つ。いわゆるFDと言われる仕事である。勿論、いわゆる「研究」も継続しているが。

 

確かに授業設計や授業運営にはコツもあり、それについて知っているか知らないかでは、仕事のやりやすさはまるで違うだろう。しかし、大学教員の力量形成を考えた場合、本質的なのは教員が探求を続けることだと思う。すなわち研究活動こそが大学の中核にあると私は考えている。広義のFDには教員の研究力向上も含まれるとどこかで聞いたことがある。含まれるというより、そっちが核だと思う。大学教員の力量形成は、研究における熟達と深いつながりがあるんじゃないかというのが私の意見だ。

 

たとえ教え方がうまくなっていったとして、大学教員が探求をやめ、己をアップデートすることを怠ったらそれは何なのか、それでは身も蓋もない。自身の専門だった科目を教えていなかったとしても、それは染みだし、人となりに反映され、話し方に、話す内容に現れるものだ。もしそこがうまくいかない悩みがある教員がいるとしたら、何かテクニカルな支援が必要かもしれない(そこはほんのすこしの支援でぐっと改善されるだろう)。

 

大学生というのは日本では18や19や20や21、そういう年齢の方々が多い。そういう、「研究」の新参者あるいは門外漢の視点で揉まれながらも、大学教員は思考をブラッシュアップし、新しい知を構成していくのだと思う。私は授業で学生と接する際、講演や学会発表とあまり変わらない、ある種、ステージに立つような緊張と高揚感を持って臨んでいる。事前にスライドを作りこむかは別としてだ。そこで出てきた学生の反応に心身を傾け、リプライし、真剣勝負をしている。そういう中で新しい研究の着想が生まれることも多々ある。これは私の分野に限ったことではないんじゃないだろうか。

 

大学教員が学生と探求活動を共有しているのであれば、「教育/研究」となるのではないか。今の自分にとっては「授業」という形式も、探求活動の一環である。何かを教えているという気はさほどなく、学生と共に未知なるものに向かって議論をし創造する過程が「授業」だと捉えている。従って、私にとって「授業」も研究である。「授業」を研究しているのではない。

 

探求したい人が集まるところが大学、老いも若いも。

そういう考え方はナイーブすぎるのだろうか。