秘密結社、その先に。

実は昨日書きたかったことは他にも沢山あって、なぜならば昨日は沢山考える日だったからだ。昨日は沢山のアイディアが出て、それを話して、カタチにしていく日でもあった。要は、生産的な日だった。

 

ブックカフェテラチの話の続きをしよう。

このイベントの司会進行は、現在は大学院修士1年のYという学生がやっている。なぜならばこれは彼の主体的企画だからだ。昨日は私が90分話し続けたのではなく、30分話して(それはそれはものすごい勢いで話した)、その後は、参加者が話していくスタイルだった。つまり、私は、きっかけに過ぎない。

参加者は何について話したのかというと、自分にとってコミュニティとは何かということを話していった。地域に知り合いがいないので家族しか思いつかないといった学生もあれば、転勤族だったので地域には何もつながりがないけれど、SNSで海外の人とも関心でつながっているという市民のかたもあり、様々だったのだけれど、その中で、同僚である哲学の教員が、「地元のもつ焼き屋」と言ったのがとってもよかった。

彼はそこにかなりの頻度で行くらしく、常連同士いろんな話をするのだそうだ。私にとっての某barにあたるのだと思う。(このイベントのあと、近々、双方のサードプレイスに訪問しようという話になった)

面白いなと思って聞いていたのは、同僚ら含め、誰ひとりとして職場にあるワーキンググループ的なものを挙げなくて、実際にはウェンガー『コミュニティ・オブ・プラクティス』ではそういうビジネスの中にある集団が沢山挙がっているので、ここで語られるCommunityとの差分を興味深く思っていた。ポジティブなものしか挙がらないんだなという印象をもった。

 

参加者の挙げたコミュニティの話を踏まえて、私は、敢えて違うタイプのコミュニティの話をした。それはアカデミックコミュニティだ。私たちはジャーナル共同体に属しており、ジャーナルに投稿するもの同士、存在も知らない場合もあるのだけれど、同じ大目的を持って研究をしている。アカデミシャンにはマナーやルールが暗黙にあって、対面・非対面に関わらず、会ったらやっていけるようになっている。さらに、興味深いのは、もう死んだ人の論文も引用することができて、私たちは、書いたものを通じて、つながっていくことができる。これはすごいことだ。空間の制約を受けないだけでなく、時空すら越えている。

 

私がどうして、大学院に行こうと思ったか、研究者になろうと思ったかというと、ワークショップは消え物で、これを一生であと何回できるかと25歳の時考えて、それで実践の限界を感じたのだった。正確に言えば、実践で人と出会えることの限界を、だ。研究者になれば、自分が死んだ後の世界ともつながっていられる。

 

私にとって、子どもの時、本というのは人の思考とつながる手段であった。私が小学校のとき創った部活は「読書クラブ」だ。読書クラブでは輪読を主体とした活動をしていた。昨日、私にとって学習共同体をデザインすることの原点は何だったか考えていて、この「読書クラブ」を思い出した。さらにその後は、小学校高学年で通っていたテスト会の帰りにも、数人で集まることをやっていて、その時はイミダスを持ち歩く少年がいたので、その子の周りで自然と集まりができた。中学の時も、本の周りにサロン的なやつができていて、談義をした。中学になると、音楽を聴きながら本の話をするという文化があった。これらは「秘密結社」のようだったと思う。ある種の排他性を持っていたと思う。あるいは近寄りにくさのようなものがあったはずである。これは私たちが、「本を読む」という活動だけを共有していたからだと思う。

 

私は中1の末に小説を書いて学内雑誌に出したのだが、そうすると、状況が少し変わった。「秘密結社」外の人からも声がかかるようになったのだ。ここで今日の本題、「読む」コミュニティと「書く」コミュニティについて。アカデミシャンは、書くコミュニティだ。書くコミュニティは極めて開放系であると私は考えている。なぜならば、知を表出し共有することを価値としているからだ。

 

先日、某後輩らとblogについて話していて、「何か宣伝したいことがないと書くモチベーションが上がらない」と言っているのを聞いて相当びっくりした。書きたいことに溢れて、カラダの中がパンパンになっていく感覚はないのだろうか。勿論、研究者はきっちり投稿論文を書いていればいいと言えるが、研究には構想段階とか試行段階とかあるので、やはり、アカデミシャンには「ふらふら書く」という時間も必要なのではないか。少なくとも私には必要だし、私は書くことによって理解を深めたり、物事を進めたりした経験が山ほどある。近頃、SNSの普及により、blog派だった人もFBで満足してしまうきらいがあるが、まとまった長さが書けることや改行できること、そして文章を俯瞰できることをとって考えても、blogのメリットは大きい。blogは誰かのためにあるのではなく自分のためにある。

f:id:hari_nezumi:20160625212906j:plain(母がまだ研究者だった頃、よく専門書を探しにいく古書店についていったことを思い出した。神保町にて撮影。)