武蔵美とわたし。

今週はあちこち行ってきた。喋ったり聞いたり。あとは論文の査読対応もあり、書いた。忙しかったので身体は疲れたけど、新しい出会いがあり、喜んでくれた人もいたようなので、とてもよかった。

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何よりも、8年いろんなかたちでお世話になってきた、武蔵野美術大学芸術文化学科准教授の杉浦幸子さんの講義に木曜日お招きいただき、ゲストとして3年生と院生にお話をしてきたことは、大変印象的な出来事だった。

 

わたしと杉浦さんの出逢いは、わたしと武蔵美の出逢いでもある。

私が修士1年の5月に、先行研究レビューをして見つけたのが、杉浦さんのワークショップの記事だった。それは私が東大の院試を受けたとき研究計画に書いた実践とコンセプトが大変似ていて。でも、何倍も練られていて。その記事からだけでもぞくっとして、私はそれを見てその方向性での実践をして新規性を出すのは無理だと思ったのだった。

 

次に考えたのは、杉浦さんとどうしたら親しくなれるのかということだった。杉浦さんとお話をしたかったのだ。そこで、ありとあらゆる当時の自分のつてから考えて、研究室関連で仕事をされていた武蔵美出身のPrimus design吉田二朗さんに相談し、運良く武蔵美の通信教育のコースがスクーリング中のバイトを必要としていることを知り、紹介でそのルートに乗った。

 

最初は臨時教務補助というものになった。誰よりも早く行き、先生のコーヒーを入れ、美術館見学があれば入場券を100人以上の学生全員分買って配るとか、レポートを集めて学籍番号に並べるとか、黒板を消すとか、PCの接続するとか、そういうことをしていた。

 

東大の修士の院生だったから、武蔵美には働く人も含め武蔵美出身の人が多いのでとても溶け込みづらかった。だからこそ人一倍、一番多く仕事をしようと考え、ただただやみくもにやった。学費を払わず美大の講義が聴ける、教員の雑談が聴ける。それがたまらなく嬉しくて、何も苦にならなかった。

 

何度聴いても講義は新鮮だったし、学生の課題発表は面白かった。武蔵美は私にとってはもうひとつの、「学校」だった。その後、東大の助教になっても2年目までは続けていたので、足かけ7年働いたことになる。その間に随分沢山の同僚に恵まれ、研究室の方々にもお世話になった。そのことがあったので、今、山内研の後輩には武蔵美の芸文から修士1年に入っている院生もいる。いろいろ、人のご縁があること、本当に感謝している。だから芸文生の卒論や修論の相談にはできるかぎりのりたいと思う。

 

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思えば。昨年、わたしは博論を書きつつ、研究をするということに対して初心を忘れていた。博士論文を書く意味を見失っていた。(こんな博士論文、出したって誰も喜ばない、誰も望んでいない、そんなものを書いて出して自分が博士号をもらうなんて、就職のために必要だからとしか言えないのだとしたら、この執筆という活動はなんという哀しい自慰行為なんだ)と考えていた。データをとらせていただいた方に申し訳無いから書くんだ、このままで終わったらお世話になった方に悪いから書かなきゃいけないんだと、自分を追い詰めていた気がする。

 

今週、自分の研究のことを、違う角度から、3回話す機会に恵まれた。教育工学会では進捗的な意味で話すことがあったけど、最近、ミクロなことしか報告してこなかった。だから今週は新鮮な体験をした。研究の話を面白いと言ってくれる人に何人も出逢えた。同一領域ではない、研究者ではない人にも、きちんと説明すれば面白いって顔をしてもらえた。

 

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何より、武蔵美で3年生と院生に講義をしたのはとてもありがたい経験だった。わたしがインタビューデータをとらせていただくなどずっと研究協力していただいている杉浦幸子さんに、良い刺激になったと御礼を言われて嬉しかった。

 

杉浦さんはお世辞を言うような感じの人ではないし、常に学び続けるきらきらした人なので、彼女に面白かったと言ってもらえることはわたしにとって大変誇らしいことだった。返せないほどの沢山の恩を感じている人に、自分ができることがあるとすれば、それはその人の恩を糧にして自分が良い仕事をすることだろうと強く思った。

 

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こんな研究誰かの役に立つのだろうか?という不安が少しずつ消えて行きつつある。

役立てるか役立てないかは読んだ人の自由なのだから。

わたしがすべきことは、私が夢中になってこの8年やってきた研究をきちっと書いて、それをいろんな場所で話して、その気持ちごと残すことなんじゃないかって。

そんなことを思った。