本音と建前

学生さんからの研究に関する相談やインタビュー依頼には、できるだけ答えるようにしている。

 

忌引き明け最初の用事も、東大の院生の方からのインタビュー依頼だった。当初、サイエンスカフェ主催者へのインタビューというようなものだったが、私は「サイエンスカフェ」として東大でも帝京大でも、カフェイベントを企画したことは無い。それはアイデンティティの問題なので、そういう前置きをしなくてはならない。

その上で、サイエンスカフェに取り組む大学院生や若手研究者とそれを取り巻く環境には興味があるし、主催者に対する調査を行ったこともあるので、そこから考えていることや知っていることをお話した。

 

興味深いことの1つに、サイエンスカフェをしたいと思う人は非常に少数派であり、彼らの「外に研究活動をひらきたい」という気持ちは所属組織の中での無関心あるいはネガティブな反応によって継続できなくなるという事例が少なくないことがある。

研究者が外と繋がらなければならないというのは、もはや私としては反論余地ないところだと思うが、それはリベラリストの建前であり、では何のアクションをするのか、アクションにどんなリソースを割くのかというと、まるで違った話になってくる。

 

限られた24h/1day あるいは 7days/1w の、全てのリソースを賭して研究を続けることで、研究の真の目的に近づけるのかもしれない。さらには、不安定な雇用の中で、若手研究者は1本でも多くの業績を出して、そのプレゼンスを示していかねばならない。それを経験してきた世代は、自分もそうしてきたからこそ、自分の弟子や部下の余暇やライフを、制約したくなる。競争的にポストや資金を得るという研究活動そのものを支える文化もある。

 

“市民向けの活動や研究のアウトリーチをするなら、研究も全力でやっていけ”というのが、表ルールだろうけれど、その全力というのがもし全てのリソースを賭すと想定されるのが裏ルールなら、この両立は難しいと言わざるを得ない。

 

表向きやっていかねばならない、やるのがいいと言い、でも実際には割けない・割かない。これはどこかにも同じ構造があるよなと思う。例えばワーク・ライフ・バランスの話だ。そもそも、バランスという考え方が何処かで破綻してしまう在り方だ。

 

研究者が研究をひらき、社会と繋がろうとするのは当たり前のこと。そうなるのはいつなのだろう。そう考えると、おそらく、実践してきた若手研究者が、こんなに自分はその経験を通じていろいろなものを得たのだと発言し、さらに後進の憧れとなること、それが最も近道なのではないかと思った。

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