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100年は長いのか

今日は私の受け持つ今学期最後の講義だった。今日は「成人と学習/成人教育論」という授業の補講があった。

 補講は成績評価の対象から外すという規定があり、結果として参加人数が少ないものなので、今日は少しエキストラカリキュラム的に、この本を題材にして話すことにしていた。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

たまたま、今日の補講は今年度本学で開講される講義の最後だった。そして、参加者は4年生だった。つまり、彼らにとっては、大学でのラストになったわけだ。

 

私は、少しだけ自分のことも話そうと思うようになっている。

私の学生時代は褒められたものではないのだけれど。

 

人生の長さについて考えた時の話。

中学2年の時だったと思う。家庭科の授業で、自分の未来年表を作る課題が出た。それは、生涯のマネープランを考えるという、いわば家計簿とかの延長の話で、ファイナンシャルプラン教育だったわけだが、私はそんなことは興味がなくて、ひたすらやっていきたいことを沢山書いて出した。

「私の100年計画」には、3回の結婚と海外生活といくつもの関連性のない職種が出て来る。初婚はイタリア人で、エンディングが当時好きだった人と再会し再再婚し世界演奏旅行というところだけはよく覚えている。兎に角、書いて思ったのは、100年あっても足りない、短いということだった。実際にそう書いた気がする。そして、私は家庭科の先生に、ふざけていると思われ怒られた。家庭科の先生というのはだいたい苦手だ。(しかし試験ができるので成績はいつもよかった。学校とは不思議なものだ。)

 

私は今、100年は計画的に使えば短くはないと思うけれど、特段長いとも思っていない。淡々と、日々を重ねていけばいいので、年齢のことは気にならない。今強く思うのは、どっちをやろうかと悩まずともあれこれできるのはすごくいいなということである。贅沢な話だ。

 

一方で、やってみたいあれこれをやっていくには、順番が非常に重要になってくるということに25歳で思い至った。こっちの経験があっちに生きる、あっちの人脈がこれを可能にする、そこで作った資材が次に元手になる。その計画は随時考える必要があるし、毎年、容赦なく書き換える必要があるのだ。組み立てる知性と壊す勇気。

 

そんな話を、大学生にした。彼らが何を考えたかわからないけれど。

どこかでまた会う日があれば、気軽に声をかけてほしい。どんな人生を送っているか、お互い楽しみにしようじゃないか。

 

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