常に「行ける」と考える

息子が先週無事入院し、今日は朝から面会に行ってきた。

明らかに健康的な様子になっており、嬉しかったと同時に、このまま元気になっていってほしいと思った。医師と今後の相談をした後、本人からリクエストされた本を最寄り駅で揃えて送った。

 

今回の件で相談していた大学の教務の方にも入院ができたこと、時間割の変更無しでやっていけそうだと報告。

ひとりひとりは、できることをやっていくしかない。

 

「お母さん辛くないですか?」と病院の方は気遣ってくれるのだが、多分、辛いということに麻痺して生きていくことを選択してしまっており、あまり「困っていること」というのがすっと言葉にならない。

 

兎に角、計画したとおりになると気持ちがいい、それが崩れるとあまり気分が良くない、というのは昔からだと思う。ものすごく根が几帳面なのだ。

この十年で学習したのは、「如何に倒れない計画を立てるか」、つまり、ゆるくてしなやかな計画を立てる方法である。これは、ある意味、計画しないことが最強である。ヴィジョンを決めて、そこに向って間の経路を自由にしておくと、なんとなく、数年単位では「あっち」側に行けているという方略である。

 

紆余曲折あるものなので、あっても、なんとなく向っている方向だけをきちんと意識できていれば、必ず「あっち」に行ける。そういう考え方をすることによって、あまり「困らない」生き方をしている。

 

もっとも、こういうアバウトなところが耐えられない人もいるだろうし、「どうしてあっちに行けると思うんですか」としつこく理由を尋ねてくる人もめんどくさい。私の場合、「あっちに行く」と決めたら「あっちに行ける」ので、どうして行けるのかと聞かれても、それは行くと決めたからですとしか言えない。「行きたい」から「行く」ための努力をするし準備をする。

常に「行く」の途中にあると考えてしまうので、「行けない」ということが無い。

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