川のある風景

世の中には、川を渡った人とそうでない人というのがいるというのは、常日頃から思うことである。

 

実際の川は、行ったり来たりができる場合も多いが、川を渡ったという経験を持つか持たないかということは消せなくて、そういう意味で、0か1かという大きな分岐がある。先日、フランスとドイツの間の国境に架かる橋を往復したが、なんてことのない日常に、ささやかに書かれた「F/D」のサインが、今になってもまだ忘れ難い。一度渡ったら、なんてこともないけれど、一度も行ったことが無いとよくわからなくて怖いということが、この世の中にはたくさんある。

 

私が初めて、現在の勤務先に来たのは、採用試験の面接の日だった。バスに揺られて山を登っていく道すがら、緑の中に群れて建つ白い壁の団地に惹かれ、知らない東京をまたひとつ知ったという気持ちになった。

 

偶然見つけた公募に応募し、多摩川を渡った。

縁あって採用され、専任として着任して丸2年が経つ。私は9月1日着任なので、秋が、一つの気持ちの切り替え時である。私は、今の職場に大変満足していて、殆ど目立った不満がない。それは、バスで通るときに見える白く曲がった壁や、キャンパスの周辺の緑、ゆったりした研究時間、変化に富む学生、そのようなことに支えられ、非常に精神が穏やかでいられるからだ。愚痴をこぼす同僚も少なからずいるのだが、私にはそのような想いがまるでない。仕事に十分満足していて、それで給料が出るというのは、大変素晴らしいことである。

 

私は今日、新学期を向かえる。秋学期が始まり、この数十分後には、まだ出会ったことのない学生と教室で対面することになる。出逢いというのは大変趣き深く、初めてというのは二度と戻らない時である。彼らにとってそれは、長い長い日常の一瞬であろうし、私にとってもまたそれはそのとおりなのだが、私には、彼・彼女らが偶然にも私の授業を履修する、という出来事が、毎度毎度、面白くて仕方ないのである。

 

今日は履修ガイダンスで、とりとめのない話をするつもりなのだけれど、いつもどの授業でもすることの一つに、私と一緒に15回授業という学習環境を構成していく気持ちのある人と過ごしたい、という話がある。これは選択科目だから許されることだと重々理解した上でなのだが、私は、居たくない人、来たくない人は、授業にあるいは大学に来なくていいと思っている。

もし、ガイダンスを受けて、私と一緒に次回もやっていきたいと思ってくれた人とは、彼・彼女らが今後、多くの川を渡れるように、精一杯、何かをしたいと思う。

 

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