ゼミを持てる仕事をしたいと言い続けて何年かになる。しかし、そこが最近、授業の運営方法を見直したことで、そこまで強い欲求でなくなってきたのも確かである。
今の職場は充分な環境であり、学生が滞留できるスペースもできて、今後どう展開していくか楽しみである。シラバスにしっかり「この授業では文献を輪読しレジュメを切ってもらってディスカッションしたり、最終課題では個々プランニングしたアイディアをプレゼンしてもらったりするよ」とハードルを上げたことを書いておけば、それなりに履修者は頑張ろうとする人が集まり、毎回応えてくれることがわかった。読んでいる本は学術書の易しいレベルだったり、関連する最新の議論(ニュース含む)だったりするのだが、今日は輪読初日、かなり芯を食ったコメントあり、拾って深い濃い議論ができ、終わった後は自分も爽快な気持ちになった(頭を使うということだ)。
学生が、授業の終わったあと、疲れたーと言っていた。そうだろうと思う。
ここでやれないことがあるわけではなく、もしそれがやれないなら、やろうとしない自分がいるだけなのだと再認識した。
議論をするというのが日常になっているので、そうではないコミュニケーションがヘタになっているのかもしれないとは思っている。例えば、古い友人に、今日は変じゃない?と言われたのだが、それは、抑えていないと「変な人」に見えるのだと思う。抑えるというのは、結構なストレスをかけて喋らないようにすることだったり、難しい話にならないようにすることだ。普段、多分、難しいことを考えているか、何にも考えないようにしているかのどちらかになってきていて、良い感じの会話ができていない気がする。
おそらく、15年前までの私は、それだと浮くことがわかっていたので、何にも考えないようにアルコールを飲むとか、もしくは目の前のことしか考えないようにするとか、そんな感じでやり過ごしていたのだと思う。大学で働くようになって、環境的にそこを止める必要がなくなって楽しい反面、「社会不適応感」が高まっていて、少しつらくなるが、今いる場所には適応していると思うし楽しいので、振り返らずやっていこうと思う。