昨日、早稲田大学所沢キャンパスに行ってきました。
向後千春先生が企画されている「インストラクショナルデザイン研究会」というのに参加してきました。
課題になっていた本を買ってみたら面白かったというのも参加動機ですが(読んでから参加を決めました)、本質的には、インストラクショナルデザインについてきちんと学ぶ時間これまで取れてなかったなあ、という焦りも大きな動機でした。
私は、ワークショップに関する研究をしています。それを、日本教育工学会というところに論文を出していたのですが。
これまで、自分からは「教える」という言葉をあまり使ってきませんでした。
しかし、一昨年から助教になり、教員と呼ばれるようになりました。また、教員養成課程にいる方にワークショップについて学んでもらうコースデザインをしたこと、教材設計に関わったこと、専修大で授業をするようになったことなどもあり。
それから、「教える」って言葉に対して、食わず嫌いなだけなんじゃなかろうかと考え始めました。
きっと今までの私は、<今までの「教えられた」>にこだわっていて、<これからの「教える」>に向き合えていなかったんだと思うのです。
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課題図書を読んで興味のあるところを3つ見つけておく、というような課題が出ていたので、本を網羅的に読んでいました。ぎりぎりまでレジュメ作成をするか、どこを報告すべきかなど直前まで考え込んでいて、結局考えていたら疲れてそのままデスクで寝落ちしてしまい、慌てて行っても30分遅刻でした。
ところが…
行ってみたら誰もレジュメなんて配っていませんでした。
他の人の様子を見ていると、本にはそれぞれ付箋がはってあって、付箋にはメモなんかもしてありました。そして誰からともなく、話題提供していました。参加者は様々な現場で「教える」ことに関わっている人のようで、かつとても熱心な学習者なのだなあという印象でした。
参加者には僅かな時間でも学びたいという熱意に溢れており、自分のエピソードと結びつけながら本の内容を紹介していました。研究会の間中、沈黙がありませんでした。これはとても印象的でした。
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会が終わり、部屋を出た廊下で向後先生に「れいなは来ないと思った」と言われました。「なんでですか?」と聞き返すと、「よくどたきゃんするから」と言われました。まったくその通りです。完璧主義であるために満足いく水準に達しないと出かけられない、人に見せられないというところは私のよくないところです。
でも、もう大丈夫です。少なくともここはこわくないんだなあと思いました。遅刻せず、きっとまた、参加できるような気がします。
インストラクショナルデザインの専門じゃないしなあ、参加して大丈夫かなあ、という不安もなくなりました。
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(これなら行けそう、こわくなそう、続けられそう。)
これが学習環境デザインにおけるひとつのポイントなのかもしれないなあ、と思いました。早速、大学での講義にも活かせたらと思いました。
学習における参加とは何か、参加を阻むハードルについて、自分の体験をもって考える日になりました。そして、私は日々学習者である自分を実感していたいなあと思いました。
「教える」の究極のかたちは、「(言葉で直接)教えない」なのかもしれない。