裏方に徹する

大学教員の1年は、他の仕事の人とだいぶ異なったスケジュールで動く。私の場合、冬休みを終え、1月に最終回の講義をした後は、いわゆる「決まった時間に来てする仕事」が激減する「春休み」に入る。春休みには、会議が少しと入試等の業務があるのだが、他は新年度の準備、あとは研究に使うことができる。

他の職種の人には「春休み…!?」と言われるが、そういう意味では「夏休み」「冬休み」と合わせると授業の無い期間は4ヶ月強ある。その期間は他の8ヶ月とは全く違う働き方をする。しかし、研究をすることをあまり働くという感覚で捉えていないので、私はついつい「休みなんですよ!」と言ってしまう。「休める」というのは「自分のペースで研究ができる」ということなのである。

 

研究が好きなのだが、私学に勤務するようになって、私は「授業」もすごく好きなのかもしれないと思うようになった。実家の稼業が塾で、ひたすら継がされたくないと思って育ってきたので最初は認めたくないことだったが、ここまで楽しいとなると。

 

今日は最終回のクラスが2つあった。1つは、「教育学Ⅱ」という授業で、今年は「地域の物語を演劇にする」という連続ワークショップをカリキュラムの中に入れ子にしたプロジェクト演習だった。ウォーミングアップをした後、学生は2〜4人のチームになり、1ヶ月かけて、順繰り私がフィールドワークをしている百草団地に聴き取りに行く。聞き取った内容から取捨選択しながら「語り」としてのシナリオを作成し、演じては見せ、書き直しを繰り返しながら、見たことのない高度経済成長期の「ある団地の物語」を探していく。過去の群像劇の中に、語り部としての学生が行き来するような物語が編まれていった。構想は昨年の今頃から。初夏に研究費申請から始まり、夏休みから聴き取り先への交渉とフォロー、ワークショップの間は、「監督」と「プリンちゃん」に劇制作の支援をしてただき(ありがとうございました!)、私はそれを観察し、授業後に適宜「監督」にフィードバックしていくという流れで、私から学生へ直接球を投げないスタイルをとった。私がいることも忘れていけばいい、そんなかたちで進めていき、公演には、地域の方をお招きし、プロのカメラマンの撮影もつけた「背伸びした舞台」を設けた。

 

ガチ過ぎるリハ。いつも元気な学生も少し緊張した面持ち。

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公演本番(12月20日)。たくさん笑っていただけた。

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プロジェクトを通じて学習されたことを振り返る報告会が今日だった。自分の学習過程を細かく振り返るということを通じて多くのことを考えてもらえたようでよかった。正解のないこと、ゴールの見えないこと、やったことの無いことに取り組む不安というのを感じた学生が一定数いたのは予想どおりだったが、不安はチーム内で感染することも興味深かった。一方、新しいことにも図太く構えていく学生や、学年を越えて協働する様子も見られた。これから向かっていく世界には、新しいことしかない、答えも無いので、真摯にやってできたところまでを出していくしかないというコメントをした。今回のプロジェクトでは、地域の方の中で、普段私の活動にあまり興味を持っていない体の人も好意的に協力してくださったことが印象的だった。地域と大学との連携、というと簡単に聞こえるが、落とし所を何処にするかは毎回手探りである。しかし、「交流」ではなく「共創」を掲げた場合、同じロールを担当することにしては高齢者と大学生はうまくいかない。その噛み合わせにおいて、ひとつのヒントが見えた気がした。公演だけではなく報告会まで来てくださった地域の高齢の方々からは「私たちのときの授業とは違う、先生の授業は楽しそう」と言われている。

 

勤務校の大学生を見ていて、ある程度の責任と舞台を用意した方が伸びるのだろうと確信している。いわゆる「真正性」である。一方でもう少し初歩的な、アカデミックスキルズのクラスでは、如何に課題を真正に見せるかが勝負になる。これから最終レポートが提出されるので、それを読むのが本当に楽しみだ。

 

もう1つは、「成人と学習」という授業で、これはまだ担当して2年目なので試行錯誤中だったが、ゼミナール形式で自身の考えたいテーマについてプレゼンしてもらい、議論進行も学生にしてもらいながらやっていくという風にした。4年生も多かったこともあるかもしれないが、担当している授業の中で最もシリアスかつエッジの効いた内容になった気がする。

harinezumi.hatenablog.com

これまでいろいろなテーマを扱ってきたのだが、今日は、担当学生が「ひとり◯◯」について議論をしたいということだったので、そこから出発し、みんなで考えた。

どんな「ひとり◯◯」をしたことがありますか?
その中でもやってよかったことは?
今後はどんな「ひとり◯◯」をやってみたいですか?

「カラオケとかは1人でしかいかない」に対して、「他の人が入れた歌を歌うようになるかもしれない。他の人の価値観をいれると楽しみが増える。」という意見が出たり、一人で暮らす方が気楽ではないかという指摘に対して「一緒に居る人がいるからがんばれるのではないか、リスクもあるけどリターンもある」という意見や、「自分がウケるときは美味しい。自分が一番好き。子どもができた時、自分の子どもは自分が自分を好きという気持ちを越えるのか。越えると思えてから子どもがほしい」という深い感想が出たりした。

 

大学時代にはたくさん議論しておくべきだと思う。今後もいろいろなことで悩むと思うけれど、議論をするのは楽しい、とか、自分の意見以外の視点があること、そういう人がすぐ隣に座っていることを知る時間にしてほしかった。

「ひとり」に対して、「外に向いているひとり」と「シャットアウトしているひとり」があるのではないかという問題提起や、「ひとりがいい、と、ひとりでもいい、があるのでは」というコメントも、なかなか芯を食っているように思う。

4年生が帰り際、いつもにこにこ挨拶して帰ってくれること、今日は「先生の授業が一番楽しい」「ゼミがあったらいいのに」と言ってくれたのは嬉しい限りである。こういった話をできれば本も並行で読みながらやっていけるといいのだけれど(そしてそれはもっと楽しいはずなのだけれど)、それには1年が必要になる。半期の演習授業では、ここまでが限界と感じる。でも、限界は乗り越えるためにあるので、半期でどこまでできるか、もう一度、シラバス執筆の際に考えてみたい。

 

授業を担当するようになって、学生1人1人のキャラクターもさることながら、やはり授業を構成する人数によってどこまで見ていけるか、議論できるかが違ってしまうなあと感じている。勿論、大人数講義を持たなければならない状況にある大学教員もいるわけで、私は現状、恵まれていると言える。

やはり、今日も楽しかったなあと思いながら研究室で「ひとり」ふりかえっている。