愛とはどういうものかしら

息子の話ばかりしたいわけではないが、彼と話すことはある種の問答で、気付かされることも多く、結果として書きたいことも出てくる。

昨日まで見聞きしたものが外部刺激だったとすれば、息子というのは内なるものが浮き出てくるような感じである。

 

愛されたいと息子が言う。

ほわんとあったかい何か、頭をぽんぽんとされたり、落ち込んだときぎゅっと抱きしめられたりしたいのだそうだ。

「すみませんが、じゃあ、それは私に何をしてほしいということですかね。」と聞くとそういうことではないと彼が言う。私にしてほしいわけではないのに私に言われても叶えることは難しい。しかし、それこそが思春期なんだなあと思う。まだ、誰に愛されたいのかもわからない。ただひたすら愛されたいのだろう。

 

「私は君を愛してませんかね?」

「わからない。」と彼が言う。そうねえ、わからないものだから、もっともっと、誰よりもと思うのだろうし、それが信仰になったりもする。実際、私が愛していると思っていることと彼が愛されていると思えることには大きな隔たりがある。

 

前にもそんなことを書いた気もするけれど、結局、私が大事にしているのは<在る>か<無い>か、であって愛ではない。愛されていたとしても、そこに<無い>ならどうにもならない。

 

でも、それは何が<在る>であるかという問題と関係していて、いつまでもいつでも<在る>ということは実際に<在る>。愛よりもそれは強い。だから、もっと、自分がそこに<在る>ことを信じ、自分が<在る>と思えるものを信じていけば、強いのではないかと思う。愛なんて定義不可能なものに縛られていると、すごく疲れるのではないかと思うけれど、実際には、愛にすがりたかったり、記号として便利だったりする。

 

もっとも、こんなことを言っていても、中学生のときは神様がいたらいいのになって思ったこともあったし、誰もが誰かに愛されていると思いたかったし、誰もを全て愛せる人にならなくてはと考えてもいた。

今は目の前に<在る>ものを慈しむ日々である。

f:id:hari_nezumi:20170924155112j:plain