清涼の間合い

都心に生まれたことは選んだわけではないが、そこから動かず住んでいるのは選んだことと言わざるをえない。

近隣との付き合いもないのを寂しく思うときと、煩わしくないと思うとき。後者のほうが多い、そんな、人付き合いミニマム人間が、なぜ人と関わる仕事をしているのかといえば、そうでもしないと本当に独りの世界に耽ってしまいそうだからかもしれない。

「こどもを生んでみたい」と思ったのもそんな、複雑ではないが重要な、この世界にしがみつくための手立てだったのだろう。実際、こどもにまつわるあれこれは、私を浮世と密接に縛っていくので、私はふわふわと飛んでいかずに此処に居られる。

 

さて、仕事と病院通いとの狭間、暑いさなか裏道近道をしようと迷い込んだ小路に、不思議な光景を見つけた。

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昔は家族多く、必要だった大皿。不要になったものを捨てるには忍びなく、このように置いているのだろうと察した。

ちょうど、その日は大きな布袋とパッキンになりそうなものを持っていたので、有り難く頂戴することにした。

 

「1枚にしなよ、重たいし途中で割ってしまうかもしれない。そんなに大きな皿を持って帰ってどうするの?何に使うの?」

思いつきで動こうとする私を妙に冷静な調子で諭す息子に、成長を感じつつも、どうしても2枚、欲しい絵柄があったので、気をつけて持って帰ると言ってよくよく包み、袋にしまった。

大きな絵皿に憧れていた。それは私が、幼少期青年期、ときに1人多くて3人のような食事をしていたり、何やかや沢山の皿が並ぶ食卓を見慣れており、一方で、大きな皿にどんと出されるようなものを経験していなかったりしたからかもしれない。

また、つい自分が購入する際、こどもが小さかったとき割れることを気にして安価で量産かつ耐熱の白皿に逃げてきたこと、そろそろ絵皿がほしいと思っていたこともある。大きな皿に、余白をもって盛られる様子は、捨てがたい良さがある。

 

実は、高校時代は皿を買い集めていた。食器棚もまともに使わないような、そこに力を割かない生活にシフトして久しい。いつかは日本を離れるだろうと思っていたことも、皿に気がいかなくなった背景にある。

 

譲っていただけるんだもの。

有り難いじゃないのと。

御礼も言えぬまま持ち帰った。

後日、何かお届けしたいと思う。

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