読み返したくなる本に『ウェブログの心理学』という本がある。私は初めてその本を知ったとき、ウェブログというものを知らなかった。知らなかったので、読んで、なんで「ブログ」を書く人がいるのだろうと思った。全くわからなかった。書いてしかも外に出すということ。全くわからなかっった。
あるとき、わからないこと、すなわち「人もすなる日記というもの」をしてみようと。そのタイミングは大変突然だった。あの人をわかりたいから。あの人はなぜ日記をつけるのかを知りたいから。
私はその人が日記をつける理由がわかったわけではないのだけれど、私には私にとっての、ブログを書く理由が生まれたわけである。
それで思う。『ウェブログの心理学』という本を読むと今の私はどう考えるのかと。
意味というのは、反芻される。私にとって、その本は大変インパクトのある本だった。
子供時代、私が寝る部屋には(置き場所が他にないという残念な理由で)『日本古典文学大系』という全集本が全巻置かれていて、地震が来たらこやつらに潰されて私は死ぬなと思い育った。眠れない夜は、それを読んで過ごしたかったのだが、如何せん古語で書かれていた。あれは、本だと何でも読んでしまい寝ないこどもへの嫌がらせだったのだろうか。。。その全集には、「日記文学」というのがあって、私はその辺から古語に親しんだ。会ったことのない人が日常を綴る、それを読める。私の好奇心は、古語を読むことを熟達させるに十分だった。
人間の学習について知ろうとし、それを研究をしていることも、「日記」への関心と遠くない。日記を教えてくれた人は学校の教師だったのかもしれないし(それはしばしば宿題として課された)、寝室の文学だったかもしれないし(それは私に他人の思考をゆっくり想像する楽しみを感じさせ)。そして、日記を読む行為はいつしか日記を書くという行為に私をそそのかすのだった。
わからないでも、音読しているとわかると思う。音読することそのものがわかることだとも思う。難しい本でも、新しい本でも、わからないとき音読したり、書き写したりする。本も論文も、幾度も書写した。
わからないこと、わからないこと、わからないこと。わからないことが3回ぐらい重なったとき、それ以上考えてもわからないので、私の場合、それをやってみようという気になる。私にとっては「わからない」は、気になるということで、シグナルである。
何かを考えているとき、「わからない」をためるのはよい。どこで、それをためやめるかは、リミッターがそれぞれだと思うのだけれど、少なくとも、相当なストレスを抱えないと、「わからない」は、その先に進まないと思う。簡単に「わかって」しまうのは、もったいない。
わからないは、わかりたいに紐づいているとも思う。わからない時間を大切に、でも、必ず、進めるということも忘れず。わからないが愛しいのは、わかりたいからだという、その存在意義。