病棟にて

外出許可を得ていたが、熱もあったので院内で過ごすことに。人が病になっていく過程について考えていた。この数日、毎日している習慣を、一つ一つ、欠いていくような感覚に襲われた。

 

歯を磨く、風呂に入る、食事をする、着替える。普段している小さなことが、とても意味あることのように思えて、良い時間になった。

熱が平熱であると、文字が追える。38度を超えると漫画が読めなくなる。39度に近づくと、動画も音も受けつけなくなる。

 

身体は良く出来ているなあと思う。

平熱になったので、新しく買った本を使いながらイタリア語の復習。喋れないけれど、実は喋りたくてやっているわけでもなく、純粋に、言葉に興味を持って、その仕組みに惹かれている感じもある。それを使っている人たち、使わなくてはならなくなった人たち。そんなことにも想いを馳せながら。

言語学習は、やった分だけ理解が進む感じが、とてもいい。もっと早くに知っておきたかったが、今からでもいろいろ学んでみたい。f:id:hari_nezumi:20180526170203j:image

また熱が上がってきた

まだまだ闘い中っぽく、熱が上がってきました。だんだん、今何度くらいか、わかるようになってきました。せっかく新しい本がAmazonから病院に届いたのに、また明日かな。本持つのがだるいです。どうやら点滴してから8時間を過ぎると熱が上がってくるようです。むう。

 

もらったばかりの新しいトートバッグが、病院でデビューとはちょっと残念なような。中防水でファスナーあり、軽く、便利です。

実は、最近創刊された雑誌の付録です。

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その後

今朝、近所の耳鼻咽喉科に再診しました。結局、薬や点滴では改善しきらず、大学病院で検査をと言われました。

発熱しているときに、大江戸線は辛そうです。

 

もう、諦めて、明日の講座は休講でお願いしました。明日は授業無い日だったので、総務省→裁判所→息子病院医師面談→息子病院心理テスト説明→研究相談→市民講座、という予定でした。まだ、研究相談と市民講座しかキャンセルしていませんが、まだ37度後半の熱があることや、なにより水を飲むにも痛い喉では、講義は出来そうにありません。

 

早く回復するよう、休養に努めたいと思います。

文献輪読始めた

ゼミを持てる仕事をしたいと言い続けて何年かになる。しかし、そこが最近、授業の運営方法を見直したことで、そこまで強い欲求でなくなってきたのも確かである。

 

 

今の職場は充分な環境であり、学生が滞留できるスペースもできて、今後どう展開していくか楽しみである。シラバスにしっかり「この授業では文献を輪読しレジュメを切ってもらってディスカッションしたり、最終課題では個々プランニングしたアイディアをプレゼンしてもらったりするよ」とハードルを上げたことを書いておけば、それなりに履修者は頑張ろうとする人が集まり、毎回応えてくれることがわかった。読んでいる本は学術書の易しいレベルだったり、関連する最新の議論(ニュース含む)だったりするのだが、今日は輪読初日、かなり芯を食ったコメントあり、拾って深い濃い議論ができ、終わった後は自分も爽快な気持ちになった(頭を使うということだ)

学生が、授業の終わったあと、疲れたーと言っていた。そうだろうと思う。

ここでやれないことがあるわけではなく、もしそれがやれないなら、やろうとしない自分がいるだけなのだと再認識した。

 

議論をするというのが日常になっているので、そうではないコミュニケーションがヘタになっているのかもしれないとは思っている。例えば、古い友人に、今日は変じゃない?と言われたのだが、それは、抑えていないと「変な人」に見えるのだと思う。抑えるというのは、結構なストレスをかけて喋らないようにすることだったり、難しい話にならないようにすることだ。普段、多分、難しいことを考えているか、何にも考えないようにしているかのどちらかになってきていて、良い感じの会話ができていない気がする。

 

おそらく、15年前までの私は、それだと浮くことがわかっていたので、何にも考えないようにアルコールを飲むとか、もしくは目の前のことしか考えないようにするとか、そんな感じでやり過ごしていたのだと思う。大学で働くようになって、環境的にそこを止める必要がなくなって楽しい反面、「社会不適応感」が高まっていて、少しつらくなるが、今いる場所には適応していると思うし楽しいので、振り返らずやっていこうと思う。

 

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思い入れない

世の中には、深い思い入れがない方が容易く始められる、ということがある。

その最たる例は、私にとって仕事だろう。好きなことを仕事にしない方がいい、とはよく言ったもので、嫌いなことや苦手なことは続きにくいけれど、やっていく中で好きになっていくことというのは確実に存在する。

 

他者へ想い入れる気持ちが空回りして、(善かれと思って…)の応酬になってしまうと、そこには息苦しさしかない。私はそういう膠着状態を緩めていくというアプローチができないので、そうなるとばさっと切り捨てたくなってしまう。実際、思い入れた途端、そこには「思い入れた自分」が居るのであって、「対象」である「他者」は消えているような気がする。

 

どうにもならない想いを抱え悩み、悩んだ末には、だいたい1人で答えを決めてしまう。相談するという手順が無い。相談するといろいろ、他の道、穏便に済ませる、とかも出てくるのだと思う。ばさっと断るのは、決して戦略的に良いとは言えない。そうわかっていても、してしまうあたりが、不器用なのだなと思う。

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