孤独の先に

ミイラ取りがミイラになった気分。

 

大人がどうやって大人になっていったのか知りたかった。自分は大人ではないと思っていたから。どんな大人になりたいか、どんな風に生きて、そしてどんな風に死にたいか、私の関心はそこにある。

 

自分が躓いていることの答えを探して、それがわかればきっと自分の在りたい世界が持続可能なものになると信じていた。だから、在って欲しいものを存続可能にしている営みを、できるだけ共感してもらえるよう、説得していく必要があった。その手段としてあったのが研究だったし、熟達化研究だったはずだ。勿論、ワークショップも、研究会もだ。

 

そういうことをして行った自分が、何かに熟達して行ったことを自覚したとき。私はすごく孤独になった気がした。薄々は思っていたのだけれど、熟達の本質は孤独だ。自分自身がどんな在り方をするかに行き着く。誰かの背中を追って、誰かに認められたくて、そういう季節には終りが来る。自分が何を信じたいのか、自分は何をそこでやりたいのか。方法は自分の歩いた後ろにできていく。つまり、歩いて行くしかない。

 

できるようになることは、できない頃を忘れることになりかねなくて。だから、私たちは、積極的に思い出して行かなければならないんだと思う。だから、私は、今さら、教育に興味を持つようになった。きっと、人生の正午を迎えたからだ。

 

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最善について

東京は格段と寒くなってきました。

あなたがどこで何をしていても、私はここにいます。

それは甘えかもしれないと数時間前少し不安になりました。しかし、かといって私が近づいたから解決することはないですし、私が他人にできるのは気休めの何かだけです。そもそも、気休めの何かは自分で発見するに限る、というのも経験で知っています。だから、私は下手なことをせず、ここにいます。

 

いつでも私はあなたにとってContactできるよう開かれているし、別の誰かには開かれていません。これについても、全ての人に開くべきだと考えることを辞めました。

だから私は、あなたにとって開かれています。すなわち、あなたがそう思えばいつでも開かれています。何もできなくて申し訳ないと思うことはなくなりつつあります。

 あなたが何をしていても私にとって、あなたがいてくれることが善です。ただ、ただ、どこかに、いてください。

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群像劇

大事なことを書こうとして、うまく書けるわけでもなくて。

 

遠くを想っているだけで、何もできない自分。そこに居ない自分。

それに苛立っていたのが昔だとしたら。

今は、ここで自分のことをきちんとやっていくことが、想うことだと。

ここにいればきっと。だから、1つ、また1つと、私は新しいことを始め、仕事をし、髪を伸ばし、爪を塗り、料理をする。私にとって、時間との付き合い方なんておおらかなもので。

 

暇つぶしとしてではなく、名作だったのに見逃していたので観ている。

www.tbs.co.jpAmazonプライムはすごい。2001年放映のドラマをCM気にせず観ることができる。このドラマにメインで出ている役者はすべて生き残っていることからも、この作品の強さが感じられる。そして、何より、脚本家はこのあともヒットを飛ばしている。

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これを観ていて、そういえば最近、群像劇ってみかけないなと思った。群像劇を書ける人は力がある。例えば、7人の男女が出逢い、すれ違いながら、1つの時代を生きていくといった物語。最近日本のテレビドラマで群像劇を見かけないのは、もしかしたら現代を反映しているのかもしれないと思った。

 

そんなに世界は狭くなくて、一度離れた相手と、そうそう再会できない時代。近くなったように見えて、実は広くなり遠くなっている世界。だからこそ、群像という在り方が現代的ではないのかもしれない。そもそもSNSも携帯もあるから、「すれ違う」ってことの意味も変わったのかもしれない。

そんなことを考えながら、ある時間、ある場所であなたとすれ違えたことに感謝するのだった。

 

「ワインセラー」はじめます

ワインについても少しずつ記録を残し継続的に学習しようということでblog始めます。harinezumi-winecellar.hatenadiary.com

「これ飲んだな美味しかったな」「これ飲んでみたいな気になるな」を集める架空のワインセラー、始めました。

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愛とはどういうものかしら

息子の話ばかりしたいわけではないが、彼と話すことはある種の問答で、気付かされることも多く、結果として書きたいことも出てくる。

昨日まで見聞きしたものが外部刺激だったとすれば、息子というのは内なるものが浮き出てくるような感じである。

 

愛されたいと息子が言う。

ほわんとあったかい何か、頭をぽんぽんとされたり、落ち込んだときぎゅっと抱きしめられたりしたいのだそうだ。

「すみませんが、じゃあ、それは私に何をしてほしいということですかね。」と聞くとそういうことではないと彼が言う。私にしてほしいわけではないのに私に言われても叶えることは難しい。しかし、それこそが思春期なんだなあと思う。まだ、誰に愛されたいのかもわからない。ただひたすら愛されたいのだろう。

 

「私は君を愛してませんかね?」

「わからない。」と彼が言う。そうねえ、わからないものだから、もっともっと、誰よりもと思うのだろうし、それが信仰になったりもする。実際、私が愛していると思っていることと彼が愛されていると思えることには大きな隔たりがある。

 

前にもそんなことを書いた気もするけれど、結局、私が大事にしているのは<在る>か<無い>か、であって愛ではない。愛されていたとしても、そこに<無い>ならどうにもならない。

 

でも、それは何が<在る>であるかという問題と関係していて、いつまでもいつでも<在る>ということは実際に<在る>。愛よりもそれは強い。だから、もっと、自分がそこに<在る>ことを信じ、自分が<在る>と思えるものを信じていけば、強いのではないかと思う。愛なんて定義不可能なものに縛られていると、すごく疲れるのではないかと思うけれど、実際には、愛にすがりたかったり、記号として便利だったりする。

 

もっとも、こんなことを言っていても、中学生のときは神様がいたらいいのになって思ったこともあったし、誰もが誰かに愛されていると思いたかったし、誰もを全て愛せる人にならなくてはと考えてもいた。

今は目の前に<在る>ものを慈しむ日々である。

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何を教えるか

こどもを持って、何を教えるかを考えるようになった。

親戚から従姉妹は、私と付き合うと良からぬことを吹きこまれるから会うなと言われていると聞いたことがある。確かに最後従姉妹に会ったのは20年近く前になる。

他所のことは知らないが、うちの子には、私が知りたくて仕方なかったことや、知って興奮したことを伝えたい。たとえば、地面は繋がっていて、うちから北陸まではバスで一本だ。

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北陸に行くと、日本海がある。

そして、日本海の向こうにはロシアがある。

氷見に仕事で行った際、酔った若い衆が、「東京より俺らはウラジオストクに親近感がある、晴れたら見えるから」と言っていた。カルチャーショックだったけど、以来、北陸は好きだ。

私達は案外、どこにでも行ける。それを知ろう。それを知らせたい。