「孤高の博士」という像

賀状を出し続けているのは、主に年長者との関係である。

そうかあ、移動されたのかあとか、もう定年間近なのかとか。自分が修士研究をした時、博士研究をした時に、学会でコメントしてくださった方、廊下で声をかけてくださった方、データを取らせていただいた方。どんどん、消息がわからなくなっていくけれど、そして多くの関係がSNSで代替されているように見えるかもしれないけれど。私にとって、どうしても代替できない関係がある。

 

こういうところに文を書くことも、おこがましくも、未だ見ぬ誰かに、伝えておきたいことがあるからかとも思う。備忘録といいながら、なんとも傲慢である。

 

さて、また数日前の衝撃に戻るわけだが、「学者・博士」が、もし今の子どもたちに憧れられる仕事のひとつなのだとしたら。

www3.nhk.or.j

 

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それについて、誰かが伝えていく必要があるような気がしてしまった。どこで何をしているのか、キャリアも含め、すごく見えない、見えにくい仕事な気がしているからだ。

白衣を着た科学者や、ノーベル賞受賞者だけが、研究を支えているわけではないし、そもそも、「学者・博士」と「研究者」とが、同じことなのかすら、私には説明できない。たまに私は、「学者先生」、と言われて戸惑う…。私の中ではっきりしているのは、「研究者」というのは「研究をする人」というもので、研究とは姿勢のようなものだということだ。

 

非常に難しいこととして、「研究」にはいくつもの領域がある。それは、細分化の一途を辿っているように見えて、同じものを見つめているのかもしれない。私は人文社会学系の研究者であるが、自分の考えていることが理工学系や医学系の研究者と協働しないと解決できないこともあると思う。そもそもこのカテゴライズすら、違うって言われそうでこわいくらい、物事は重なりを持ちながら進んでいる。

 

先日は査読について書いたが、独自のシステムで、論文の査読よりも早く、研究「成果」を共有している領域がある。arXivは、1991年からスタートしたプレプリントを含む最新情報が読めるアーカイブであり、それは当時は衝撃を持って受けとめられたそうだ。現在はコーネル大学が管理をしている。

arXiv.org e-Print archive

 

ただ、プレ・プリントサーバーがあったとしても、査読という仕組み自体は続いている。そして、査読依頼は私のところにもやってくる。私はまだ若手を抜け出したばかりなので、そこまで多くの依頼は無い。でも、来る人にはものすごく査読依頼が来るらしい。

そして、それはしばしば、「また来ちゃった…」となるわけだ。ただ、私は査読が来ることをわりと有り難いことだと思っていて、なぜなら、それは最新の実践や研究を読める可能性だと思っているからだ。勿論、読んで面白いものは正直多くなく、1行目からがっかりすることもある。それでも、私に見てほしいと言ってくださることは光栄だと思う(こう言っていて殺到したらまた辛いし、決して読むのは速くないし、読めないものは読めないけれど)。もし私がすごくいい加減で、そして誰からも信頼されていない研究者なら、査読依頼は来ないと思う。だから、査読が回って来ると、少しほっとする。

 

一方で、先程も書いたように、頭が痛くなるようなものを読むと、この人はどういう指導環境にあったのかなあ、もしくは教育研究について触れる機会が無い人だったのかもしれない、などと思う。そして、研究をしたい人と、研究について学ぶ環境とのマッチングについて考え込んでしまうのである。

 

大人になって、問題意識を持ったり、研究がしたくなったりする人がいるのはわかる。

note.mu

どんな人にも研究することは開かれているとも思う。しかし、職業的「研究者」である(になる?)ためには、いくつかの「掟」「作法」みたいなものがある。

 

厄介なのは、人文社会学だと、「掟」「作法」「価値」が少しずつ違っているということだ。これらは統一されずに、それぞれの「学術領域」の中の「学会」と「運営される学術雑誌」に連動していることが多い。また、それぞれの「学術領域」の中の「学会」の「運営される学術雑誌」には、これをINとし、これをOUTとするという境界と言われている。こういう考え方を、藤垣氏は、「妥当性境界」と呼でいる。 

harinezumi-library.hatenadiary.com

この妥当性境界は、刻々と「学術領域」の中の「学会」の「中のひと」である研究者によって議論され、微妙に変化したり構築されたりしている。だから、昔は研究テーマにならなかったものが新しく「価値がある」とされたり、今まで支持されてきた知見が微妙かも、となったりする。これは、学術雑誌を創刊号から縦読み(面倒なら10年でもまあ良い)すると、実感できるものである。

 

最後に、ここで書いておきたかったことは、「研究者」は、日々、自身の研究を展開し、時に時空を越えて過去の研究者の仕事とも比較しながら、「これが妥当」とか「価値がある」とかを考え議論して進めているので、決して1人では仕事をしていないということだ。1人はみんなのために、みんなは1人のために。それが研究者の仕事、だと私は思っている。

 

これは「学者・博士」という子どもたちの、あるいは一般の人のイメージと、少し違うのではないかと思ったので、ちょっと書いてみた。

 

追伸:

妥当性境界に関連する研究で2つ、とても興味深いものがある。

【1】とある捏造事件から、妥当性境界への議論が生起していく過程を分析した論文。山内保典・岡田猛(2003)「学問コミュニティにおける研究の妥当性境界の構築過程:科学的思考研究の新たな側面とその枠組みの提案」認知科学, 10 (3), 418−435

www.jstage.jst.go.jpk

【2】科学とパトロネージについて、アカデミック・クラウド・ファンディングという視点から考えていく横山広美氏(東京大学)の研究。

Research on patronage of basic science (the difference between science born out of crowd funding and ordinary science, changes in scientific view as seen from society, etc.)

http://db.ipmu.jp/member/personal/5240en.html

 

 

追記:

これはこの記事の続きでもあり、別でもあり。

harinezumi.hatenablog.com