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ちゃんと生きていく

先週は非日常という感じで、ばたばたしていて、整理もままならぬまま、

すべてが新しくなっていく週の始め、雨の月曜日。

 

雨の降る前の匂いは嫌いではなくて、昨夜、散歩の途中に雨が降ってきて、そのまま濡れて帰るのは少し楽しかった。服が濡れるのはよくないとわかっているんだけど、できることなら、雨は浴びていたい。大学のとき、大雨の日に、ずっと雨の中、構内の芝生で踊っていたことがあって、すごく変な顔をされたけど、着替えがあれば別にいいわけだし、みんなお風呂もシャワーもプールも入るのに、雨だと傘をさすのって少し面白い。

 

雨の匂いに誘われて、茸を食べた。

harinezumi-recipe.hatenadiary.com

毎日、日々、その日の感覚、その日の状況を察して、一番よいを考えていく。そういうのが、私にとって、ちゃんと生きていくってことだ。私が研究をしているのは、それが今、一番私を熱狂させてくれることだからで、もし他に何か見つかれば、私はあっさり、研究をやめるかもしれない。そんなことを友人に言ったら、そうなんだろうね的な返事が返ってきて、ちょっとよかった。

 

だいぶ前に読んだ記事で、ちょっと気になってピンしていたものがあった。

 

断章1(食べるということ) | アパートメント

下記、引用(太字下線は私が追加)。

どういうわけか、食べ物を贈られるということには、他のものを贈られるのとは違った喜びがある。食べ物を贈るという行為が親愛の情を示すものとして捉えられるのはなぜなのだろうか。
食べることが快楽に直結しているからということもあるだろう(「食事をする」ということがセクシュアルな含意を持つのもこのためかもしれない)。しかし、 より根源的には、食べることが生命の維持に直結しているからであるように私は思う。生きるためにはなにかを食べなければならない。だから、食べ物を贈ると いうことは「あなたにまだ生きてほしい」という思いを表現することであると思う。これはこの上ない親愛の情の表現ではないだろうか。食べ物を贈られること の喜びとは、私が生きることを肯定される喜びなのかもしれない。 

 

私は、あなたにはまだ生きてほしい。

あなた自身が、もう死んでもいいと思えるまでは。

 

じゃ、私は?というと。私は、いつ死んでもいいと思っている。心残りが無いよう、やりつくしている。よく考えたら、アンバランスな話かも。

 

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