<終わり>についての雑感

昨日は2回飛行機に乗った。1回目は全日空で、機内BGMが宇多田ヒカルの特集をやっていた。宇多田ヒカルに特に思い入れがあったわけではないけれど、新しいアルバムには良い曲があった。聴いているとじんわり涙が溢れてきて、とても困った。

私の心の中にあなたがいる

いつ如何なる時も

一人で歩いたつもりの道でも

始まりはあなただった

It's a lonely road But I'm not alone

そんな気分

 

調子に乗ってた時期もあると思います

人は皆生きてるんじゃなくて生かされている

 

宇多田ヒカル『道』)

 

数時間後に購入した。そして、終わりのことを考えた。

 

敢えて抽象的に書いている。わかる人だけ、ああと思って貰えればいい。

 

終わりをきちんと終わりだと認識することは美しい。冷静・平生はそれができる。でも、ある時、それがうまくできなくって、執拗に追いかけ続けることになる。これが執着であり未練である。これは少しも美しくない。忌むべきものだ。

 

<はりねずみ>は、自分でいることを優先し、歪んだり壊れたり平穏で無くなったりするような関係を排除しようとする機能があって、入り込んでくる温かいもの、尊いもの、柔らかいもの、いわゆる<光>を、遠ざけるような行為をしがちだ。

 

<はりねずみ>は、しばしば針を立てて丸まる。こっちに来ないで欲しいと、精一杯、威嚇する。受け容れると言われてしまうと、<はりねずみ>は困惑する。威嚇している意味がなくなってしまうからだ。

攻めていたつもりが、包容されていく時、<はりねずみ>は、<はりねずみ>であることを呪うようになる。そして、そこから逃げるか、思案する。

 

あるとき、<はりねずみ>は、<はりねずみ>でなくなってもいい、と思うようになる。針の無い身で、<光>に寄り添う心づもりだ。

 

しかし、<はりねずみ>でなくなった<もうなんだかわからないもの>を、<光>は照らし出してしまう。目が覚めたら夜は終わっていて、<光>に満ちている。

 

こうして、終わりが来た。<もうなんだかわからないもの>を、<光>が包む。

この光景は、果たして、美しいだろうか。

 

結論は、美しい必要がある。

そして、現実はさほど美しくない。

 

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