手を振る

大学の時からの友達が、家族を連れて職場に来た。彼女には3歳の娘と、もっと小さい息子と、パートナーがいる。彼女はフランスに移民している。私には同世代の友達が少なく、女性の友達はさらに少ない。その中で、希有な存在である。

 

そもそも、大学の時、彼女と私は変な出会い方をした。語学の授業の後、廊下を歩いているところで、1学年下の彼女の方からお茶しませんかと声をかけてきたのである(後日、彼女はナンパをしたのだと言っていた、おかしな人だ)。以来、私たちは、何かしらモノを一緒に創りたいと考えて集うようになった。私たちは美大生ではないから、モノを創りたいということは、そのまま、近づくのに十分な力を持ってしまうわけだが、話していくうちにそれだけではない誘因を持っていることに気づいた。彼女はカメラを持っていた。私は映画を創っていた。二人とも映画をよく見た。

 

私がシナリオを書いて演出し、彼女が写真を撮って、それを映画にしたことがある。

私は頭の中にあるイメージを絵コンテに描けないので、彼女は私の大切な眼だった。

 

彼女は様々なバイトをし、お金を得、大学を出た。そしてさらにお金を貯め、パリに移住した。彼女が23の時だったのではないかと思う。

そのことを聞いたとき、私はやられたという気がした。だって、私こそ、パリに移民したかったんだもの。彼女が居なくなってから、私はカメラも写真も彼女無しでは考えられなくて、それで自分から遠ざけてしまった。つい昨年までは、カメラを触りたくないくらいだった。

 

彼女は私にできないようなことをやってのけた。移民するまでの過程は、細かく知っているわけではないがなかなか大変そうだった。

彼女は、労働するためのビザを取るまでにとても苦労をした、屋根裏部屋のようなところに最初住んだと聞いている。その中で、潜り込んでカメラマンの仕事をし、実績を積み、働く許可を得、今はスタジオを一つ任されている。主夫をするパートナーと、二人の子供と暮らす。

 

私はなぜ、パリに行かなかったのだろうか。私は弱虫だった。だから日本で大学院に行った。彼女はカメラを、私は研究を。去年の秋、10年ぶりに再会をした。私も、彼女に会って良いときが来たと思ったから渡仏した。博士論文を書くというのは私にとっては、区切りだった。映画を撮らなくても、別のものを書いた。だから、二人は、10年経って、会えるのだと思った。楽しかったけれどひどく揺さぶられた。

 

これでよかったんだ。

 

友達の中では時間はすっかり止まっていて、私を昔と同じように呼ぶのである。私は少々人見知りをしながらも、でも、次第に過去を思い出す。彼女の娘は私にとてもなついた。

 

三四郎池で別れた。

その友は、本当にいつでも、どこで別れるときも、くったくなく、「またねー」、と言う。私は彼女のその言葉のあと、彼女に10年会わなかったこともあったというのに。それでも彼女は、そんなことを、まだ言う。

 

もし彼女の娘が日本で学びたいと言ったら、私は喜んでサポートするだろう。パリにないものが、何か日本にあるならば。でも、私にはそれが何も答えられない。

 

東京にあってパリにないもの。私が生きてきたところ。

 

会わない時間があっても、国が離れていても
あなたと私はきっと友なんだろう、という話。

友はライバルになり、お互いが強く生き、いつしかまた友になった。