メンタルが落ちて、帰りたい。
メンタルが落ちて、帰りたい。
「お仕事探していませんか?」
普段行かない商店街でそんな呼び込みを聞くとドキッとしてしまうのだが、目をやるとそこには不動産屋のような体裁の店だった。
仕事を対面で紹介する、という形式に興味があり、どんな職種・業務形態があるのか、どんな地域の業務があるのかを貼り出しチラシを見て確認、中のスタッフが声をかけてくれたのでいろいろ聞いてみるた。
声の掛け方は携帯ショップのよう。そう思ってあとで調べたら、携帯ショップを経営する会社の別業態だった。
どんな働き方をしたいのかわからない、どんな仕事があるのかわからないという人。
パラパラ見るタイプの求人雑誌ではなく、検索サイトで探すこと・人が多くなった昨今、もしかしたら、人−人で相談したいというニーズもしっかりあるのかもと思った。
街の困りゴトなんかも、扱うときもあるのかしら。
スタッフによれば、求人先は「お仕事ハウス」独自に集めているものも多々あり、通常のエントリー・採用プロセスより速く手続きが進む可能性もあるそうだ。
なお、この店舗型は現在は1軒のみ、2軒目の場所を探し中とのことだった(スタッフによれば)。
(写真はスタッフに許可を得て撮影しました)
5月1日まで開けられない手作り味噌がある。
昨年、味噌づくり教室に宇都宮まで行ったら、1人4キロ仕込みますと言われた。4キロ、自宅まで頑張って運んで帰った。しかし、4キロ味噌を消費するイメージが湧かない。
味噌屋さんは、毎月1キロ使うと、みたいに言っていたが、そんな大家族ではないわけで。そうすると、やはり味噌は誰かにあげるのかな、とぼんやり母をイメージしていた。
しかし、気に入らないと言われても面倒だなとか思っていたら、母が友達から手作り味噌をもらったという記事を読んでしまった。悪気は無いのはわかっていても。なんかモヤモヤする。
大事にしないとと思っても、大事にしやすい人としにくい人がいる。血縁というのは多分、難しいのだと思う。甘えもあるし意地もあるんだろう。
多分私は、味噌をさしずめ友達に渡すんじゃないかなと思う。料理が好きな友達に。結局、私も親と似ているわけで、嫌だなあと思った。春になって、美味しく出来ていたら気が変わるんだろうか、いや、宇都宮の味噌は今の私の口には合うが、九州育ちの母には辛いだろう。それだけ、味覚は違ってしまったのだ。
それにしても、味噌づくりは楽しかった。味噌を消費するめどが立たないと、またあの楽しみが味わえない。
花粉で辛いので前もっての約束以外無理そう。そんな中でも、いろいろスライディングしてくる感。
喉や舌が微妙、あんまりお酒も楽しめなくて悲しい。料理も香りが駄目でうまく作れない。マスクしていても咳こんでしまい気持ち悪くなる。つわりみたい。
気晴らしにとジム行ってみたが、他人の挙動がいつも以上に気になってしまう。
月曜日、別の病院行ってみようかなと思っている。
花粉症に風邪が重なって眠りにくい。
どうもネガティヴな寂しい気持ちになりがち。
仕事はうまくいきすぎているけれど。
そろそろ、3.11かあ。
また新しい研究計画の助成金が通った。
通るように考えて書いたので通ると思ってはいたけれど、やっぱり通ると嬉しいものである。
つい最近「酒に酔ったふりもできないなんて残念な女」と、どうでもいい感じの人に言われた。
未だにこういった言説に晒される。「可愛げが無い」は言われても別に構わないのだが、「残念だ」と言われるのは特に遺憾だ。私が女として残念なのではなく、おそらくその人が「残念…」なのだと思う。もし、意中の人が酔ったふりを期待するならばそうするのかもしれない。もっとも、私は酔ったふりをしてほしいと望む人に惹かれることが無さそうだが。
私のことを他人がどう思っているのか、よくわからないし考えても無駄な気がしている。よく運がいいだけとか、ずるいとか言われてきた。中身が伴わない、賢そうに見えない、欲深い、みたいなイメージがあるのかもしれない。私の中では欲深いという感覚はない。やりたいことがもしかすると少し多いのかもしれないけれど、気にしたことがない。
あと、自分の特性を説明することも難しい。計画的、分析的、戦略的だということと、情熱的で行動的で直観的であることを、どのようにつなぐか。この10年ほどは、「何人かが自分の中に棲んでいて会議をしながら暮らしている」という捉え方をしてきた。
たぶん、いろいろな側面の私がいると思うが、少なくとも私は私を残念だと思ったことはない。たのしく生きている。