言葉と居場所

時差ぼけというやつか。なかなか寝付けない、昼夜逆転している日が続いている。マンチェスターに居た日がただただ懐かしく、できるだけ早くまた行きたいなとあれこれ手帳とにらめっこする。正直、立ち寄ったヘルシンキでは日本人と居た時間が長かったため、あまりフィンランドに居たなあという感覚がない(誰と居たかという記憶になる)。その点、イギリスでは一切日本語を使わなかったので、<そこ>に居たなあという記憶になる。

言語と場所との、当然の関係である。

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さて。アメリカでの生活ってどんな感じなんだろうなあ。

<たった一人の存在>が、こうも私を引きつけてしまうとは。

私はこれまでアメリカに全く関心を持っていなかった。何故避けてきたのだろうと思うほどである。私にとっては、心理的に遠い国の1つであったことは間違いない。

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<たった一冊の本>が、かつて私をパリへと誘ったように。

きっかけというのは存外、単純なものである。

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アメリカには日本人のリタイアメントコミュニティがあるらしい。<寺院>を中心としたものだと、研究仲間に聞いたことがある。私が観察している八王子のコミュニティサロンと、それは似たようなものだと聞いた。例えばそれはカリフォルニアにあるようだ。私からすると、<寺院>に特段の思い入れはないけれど、移住するとそういう気持ちになるのだろうか。それとも、世代の差なのだろうか。

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ロッテルダムとかマンチェスターとか、首都じゃない第二、第三くらいの都市が好きなんだ、とても居心地がいいんだと話したら、何故、君は東京に住んでいるの?と聞かれた。それは、生まれたからなんとなく棲んでいるだけであって、そこでなんとなく学校に行き仕事を見つけたという結果であり、あまりポジティブな話ではない。東京生まれというコンプレックスが、どこかしこかに見え隠れするのはこういうときだ。

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