渡伊準備進捗報告

イタリア行きを調整中。現在、現地キーパーソンやコーディネータとの相談。参考文献を読み関心を絞っている。2月か3月に行けるよう考える。

授業を沢山持つ仕事に変わったため、長期出張に出られるのは2月、3月、8月、9月のみとなる。夏はヨーロッパでのヒアリングはかなり絶望的。だから春休みになんとか行きたい。

昨年度の春休みは、息子の転校準備で断念した。今年は彼の様子が落ち着いてきているから、行けそうな気がする。1年で彼は大きく成長した。

しかし、様々なリスクもあるので、早々チケットをとるようなことは出来ない。不自由になったものだ。しかし、私はとても恵まれていて、だいたい、これまで、見たいものは見に行けてきた。なかなかこんな人生もないのではないか。ありがとう。

イタリアの大地に、今年度こそ立つことができますように。

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考えたけど無理

人生において、社会において、透明で在りたいって想うことが頻繁にある。
誰にも見つからないで透明人間として暮らしていたいと、わりと最近まで思っていた。

 

でも、ちょっともう無理だわとなって、出たとこ勝負にすることにした。

仕事について事前にイメージできないことも多い。直前もしくは事中に考えてなんとかする。なんとかなっているとは思う。考えて考えて、閾値を越えたとき、自由になれる。

 

私が息が抜ける時ってどんな時なんだろう。透明人間のように接客できるってすごいし、でも透明じゃないからサービスできているんだし。

 

翻って、私の教員としての在り方はどうだろう。フィールドワークする理想は透明人間だと思っていた時期が結構長くあって、でもそれってすごくナンセンスなんだなと今は思っていて。教育者としてもあるときは無いように、あるときは気になる、そんな存在であると良いけれど。

 

ここまで書いて、それは私が大事に想う人にもおんなじスタンスでありたいと思っていることだなと。

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教わる構え

息子が、「編曲に興味を持ったので編曲家の知り合いは居ませんか」と私に聞いてきた。作曲をしている人は編曲もすると思ったので、きっと知り合いに居るとは思ったのだが、何故そんなことを聞くのかと聞くと、紹介してほしいと言う。

 

何故紹介してほしいのかと聞く。

すると彼は、編曲について教えてほしいと言う。

私は尋ねる。

 「編曲というのは、何時間の学習をもって習得されていると君は思うかね。そして、君はそれを、私が紹介するかもしれない誰かから、どのくらいの時間で教えてもらおうと思っているのかね?」

 

そして続ける。専門職が君に時間を割くということは、通常は対価が発生することなのだということを。それをしてもらうということに親しい仲であったとしても感謝をしなければならないし、それなりの構えが君自身にも必要なのだということを。君は、楽典の本をまる一冊隅々読んで、自分で思うように編曲もしてみて、そこで初めてプロフェッショナルと話せるところに立てるんじゃないかなと。何もしないで学べることなんて、たかが知れていて、君が現状で思いつく限りの努力をした上で、教えを乞うことができるのではないかと。

 

あなたは、こんな私を意地悪で冷たいと思うだろうか。子供の好奇心に寄り添わない、卑しい大人と思うだろうか。でも私は、専門性を持って働くというのはそういことを周りに理解してもらうということだと思っている。私の息子には、私がそういう考えを持って働いていることを知ってほしい。

(※勿論、並行して私は知人のつてを辿って、しかるべきときに息子にそういう出逢いをセッティングできるように黙って動いてはいるのだ。ただそれは、今ではないとも思っている。)

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記録は大事

息子に、広汎性発達障害の診断が確定した。詳細は、アスペルガー症候群ADHDの両方があるということで(両者が併存するかは医師によって見解の相違があるようだ)まあ、予想された結果だった。

 

私としては、彼の「めんどくさいところ」をどう愛せるかということに難しさを覚えている。なぜならば、私は自分以外にあまり興味を持てない(言い訳しておくと、私が研究できているのは、私の考えていることが全て「私」の延長にある問題だからだ。そういう意味では私の「私」は一般的な「私」よりもかなり拡張されている)。私自身が広汎性発達障害なのである。私には愛情というのがあるのだろうか。ずっと、考えている。私が他者に持ちうるのは、愛情ではなく興味でしかないのではないか。

 

そんな私だが、最近、「嬉しそうにされると嬉しい」というのを実感した。これは愛情かもしれない!特に、刺激に対して反応がすぐに還ってくるとわかりやすくて良い。感情が開発されていっているのだろうか。そういう感情をすぐに忘れるので、記録しておく。

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趣味をめぐる交錯性とソーシャル・キャピタル

趣味をめぐって人がつながるという、奇遇、いや必然がある。

たまたま参加したとあるワイン会で、1人で居た私のところににこやかな見知らぬ男女が声をかけてくださって、饒舌にワインへの愛を語っていかれました。そのうちのお一方が書かれた本があると聞いて、タイトルにも惹かれ買ってみました。

harinezumi-winecellar.hatenadiary.co

実際、ある時代にそこまで普及していなかった文化というのは強いネットワーキングを見せることがある(※日本においてワインは今ほど多くの人に楽しまれていなかった時代を経ている)。また、それが時代の変化によって消費が増えてからも、多層性により新しい核を持って渦のように展開することがある。

また、趣味間の関連性というのもあり、趣味は背反しないで併存しうる。会社や所属ならば(「従来は」と強調したい)原則1つへの帰属が一般的だった。日本において婚姻なら原則相手は1対1と思われるところが(これも「現在は」か?)、趣味は複数持っていても、「浮気」とはならない。コミュニティほど輪郭性が強くない、ネットワークなので、離脱でも参入でもない。時代は流動性、実は人ベースがつながっているだけで、壁はないのだ。そこでの主役として語りうるものは、個人であり主体なのだと思う。

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追記:

「ワイン/人との出逢い」を一層抽象化すると、「趣味(あるいは関心)/交錯性」といった感じになるだろうか。それを支えるのはコミュニティと呼ぶよりもネットワークと呼ぶ方が私にはしっくりくる。ちなみに、私がblogを複数持っているのは、思考を階層化・メタ化することに寄与するしそれぞれのレイヤーで読み手と議論しやすいと実感しているからでもある。

 

備忘録:趣味におけるハイコンテキストさについて

悪戦苦戦

身体って本当に面白い。市販薬で全く効きが悪く、だるくても病院に行ったら「この抗生剤でないとそのウィルスに効かない」とのこと。

抗生剤を飲んだら症状に変化、薬がウィルスと闘っているので熱が出ている。熱が出ると外に出る気も無くなり、仕方ないかと予定を調整し謝り諦念。結果、静養となる。

 

気がつくと少しずつ身体が楽になってきている。熱が出るというのはすごい調整力だと感動。ここまで来たらもう一息だと嬉しい。嬉しいと思えるくらいに回復。

 

文章を書くのも熱を出すことに少し似ていて、自分を癒やす力がある。

Facebookで、先程このように書いたのだが

「Yes / No枕」みたいな仕組みがコミュニケーションにあるといいなとよく思うので、Facebookはわりとそういう役割にしている。

他人にどう見えるかというのは結構こわくて、例えばこういうのとかを薄々知っているわけで

体調悪いアピールをする人の心理。誰かに話して心配されたい

正直、ウザい! 女性に聞いた「何かと病弱ぶる女性」の特徴|「マイナビウーマン」

 

不調って書くの、ためらうのはこういう意見があるのも知っているから。昔、子育てしながら研究しているのを親族がよく思っていなくて大変です、と言うことをSNSに書いたら(そんなの初めからわかってたんじゃないの?)と身近な人に書かれたこと。私はその数ヶ月後に即入院ね、と医師に言われることになる。大変だと言ってはいけない、元気ですよとアピールし続けなければならない社会の圧を感じること、今でもある。

 

疲れて携帯覗いたら誰かの愚痴がタイムラインに、じゃあ、やってられないという気持ちもわかる。「キラキラInsta」がもてはやされるのもわかる。

でも、実際が悪戦苦闘の日々ならば、それはそのままでいいんじゃないかと。ウィルスと必死で闘っている私の身体、今はそれがとっても愛しい。そして、薬ってすごいなとか、医学の進歩ってすごいなとか、もっと頑張ってほしいなとか、そういうことを感謝する。

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