異分野の人と話すこと

 今日は、総務省「IoT新時代の未来づくり検討委員会第1回高齢者SWG」に構成員として参加してきました。こういった検討会に参加したことが無かったので、どういう形式なのだろうか?資料を持っていくべきか、パソコンは?などと前日、もやもやしていたところ、前日深夜に資料一式が送付されてきました。そのメールに「容量の関係上、一般傍聴者用に作成した資料を添付しておりますが、当日は印刷したものを席上にセットしておりますので、印刷は不要です」との文言が。まず、こんな時間まで仕事をしているんだ・・・という気持ちになったことと、そして「一般傍聴者?」という、妙な焦りを感じたわけです。

 ということで、今朝は慣れない場所に、ひたすら遅刻しないようにしないととだけ思って行くと、ビルの受付が混んでいるというトラップがありました。遅刻はしませんでしたが次回はもっと早く行く必要がありそうです。

 そんなこんなで、2時間みっちり、会議に参加しました。感想は、一言で言えば、勉強になり面白かった、ということです。私が勉強してどうするんだと思われそうですが、私から発信したことも他の方には知らない情報、興味深いものだったようで、そう声をかけていただいて救われた気がしました。教育学者は会議の中で私一人でした。

 よく考えると、様々な問題は複合的な視座で捉える必要があります。そういう場合、検討する場所に同質性の高い人が同席していないことはとても多いのです。例えば、今勤務している大学でも、おそらく私の研究テーマは私しかいません。生涯学習まで広げても、同じ大学に誰かいるかどうか。同じセンターの同僚には教育を専門とする人はセンター長と私だけです。他の人は、哲学だったり、史学だったり、倫理学だったり、宗教学だったり、社会学だったり、社会人経験者で研究者では無かったりもするのです。当然、会議をすれば、議論のスタイルも違います。これは基礎だよね、こういうことが大事だよねと思っていることもお互い違います。そういう中で話をします。

 今日、総務省の会議に出て、私は自分がコメントをする順番が来るまで、緊張していました。皆さん、私の知らないことを知っているので、ひたすら自分が無知だなあと思って聞いていました。でも、無知だなあと思いながら、専門家の話を聞かせてもらえるのは、私が知っていること、私に言えることもまた、少なからず有るからだなと思います。名簿順に発言することになっていたおかげで私の発言はトリになってしまいましたが、全員の発言を聞いた後、かぶらない視点で簡潔にコメントするためにメモをとって考えていました。

 今日聞いて面白かったこと、考えたこと、意見したことや言いそびれたことも、忘れないうちにメモしておきたいと思います。新しい出逢いもあり、今後が楽しみです。ちなみに、この会議の配布資料は、後日全て公開されるようです。

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「人−人」的はたらきかた

なぜ見つけたのか忘れたが、購読しているblogの1つに「フランス帰りシェフの田舎暮らし」というのものがある。

monsieur0204.hatenablog.jp

ここに、このようなことが買いてあった。

自分の周りにもフランスに長く滞在してきた料理人がたくさんいますが、帰国して長く日本で生活しているとまた日本的な考え方に染まってしまう気がします。日本の飲食業は拘束時間が長いですし、休みもフランスに比べたら少ないです。そんな中で良い料理のアイディアも浮かばない気がします。

これらの事項を遂行するには、今のような働き方が最適です。夏、冬はリゾート(夏は軽井沢、冬は白馬)で働いてしっかり稼ぎ、空いた時間は農業にフランス旅行。まだまだ改善の余地はたくさんありますが、それらもやりながら少しずつ直していけたらと思っています。

 

はたらきかたに正解なんて無いけれど、これはすごくわかりやすい。私はこういう考え方が好きだ。

私が結局、今、研究職を選び大学に勤務している理由も、拘束時間(授業、会議、入試)の圧倒的な少なさにあるように思う。拘束されていない時間が、はたらいていない時間なのではない。他の時間は自由に考え、依頼された案件を受けるもよし、自分で仕事を立ち上げるもよしなのだ。私の場合、もうじき冬休み。その後は長い春休みに入るので、その間にどのような研究活動ができるかの準備をせっせとしている。それが12月、12月は春につながっている助走期間である。

 

彼の料理が食べてみたい。でも、どこで食べられるのかわからない。

まあ、きっと、そのうちどこかで情報が掴めるだろう。客もそんな感じで、「人−人」でつながっている。そう思ってこういうところに書いているのもある。

そしてやっぱりこういう記事を読むと、コンスタントに発信できる人は強い、という気がしてしまう。売文家でなくとも、文が書けるということは、もはや仕事をつくるのだ。

 

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クリームパン論争

最近、イタリアばかりだったなという内省をした結果、今月はビストロにも行こうと思います。

 

Bourgogneのワインは美味しい、これはもう、自分の中でしっかりと認識していることであり、だからといって、それを飲み続けるのかと。普通、ここでそれでいいって思う人もいるんですよね。でも、私は、世の中にはもっと、何か面白いものがあるんじゃないか、新しいものがあるんじゃないか。そういうことを常に考えてしまうのです。例えば、日本でワインの試験を受けると、イタリアは出題の1割程度、圧倒的にフランスワインが日本における「ワイン」を牛耳っている感があります。でも、世界におけるワインの生産量の比率は、この出題比率とは全く違います。評価されているのがフランスワイン?実は、評価というのは先人が作っていくものであり、そこに落とし穴があります。そういうことに疑問を持ってしまった結果が、今の私です。あっちに行ったり、また戻ったり。

 

さて、表題ですが、私が大学院生のとき、飲み会で先輩と、ある「論争」をしたことがあります。当時のゼミ生はもう周りに居ないので知っている人はいないかもしれませんが、「何故君は同じコンビニで同じクリームパンを買い続けるのか?」という話です。

研究室の近くには複数のコンビニ、複数のパンを売る店があるのに、そのクリームパンを試さずに、最も近いコンビニで、この前食べて好きだったクリームパンを買い続ける。こういう人が当時は全く理解できなかった。だから、何故、もっと探さないのか?と糾弾したことがあります。

 

極めて合理的で効率的に、自分の嗜好にあった食べ物を手にする、それはすごく賢いのです。でも、私にはこのような賢さがありません。

今は、心が広くなったので、そういう生き方も理解できます。そもそも昼御飯にも食べることにも関心がさほどない、あるいはコストを割きたくない人がいることも知りました。そして、人生のプライオリティは人それぞれだと思っています。

 

その上で、私は、新しいものと触れる割合と、従来の嗜好を確認する割合をコントロールしておくために、記録をつけておこうと思っているのです。

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沈黙しない気力

www.washingtonpost.com

結局、自分が(これでも)ある程度言える、書ける、あるいは言おう、書こうという気持ちになっているのは、それを不当だと思えるようになったから。私の場合、大学院に進んだこと、研究職についたことが大きい。

外側の世界に行って、あるいは突き抜けてから初めてわかる、「あの不当さ」というのがある。

 

つまり、言える人というのは既にそこに辿り着いている。本当にしんどいのはきっと、言えない人だし、言うという気力が持てないひとだ。そして、たまに私もそうなる。言っていくこと、気力を持続すること。報われないことを続けるのはなかなか大変である。だから、今後もこの流れは止まらないだろうけれど、かといって楽観的な感想は持てない。

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断捨離すべし

さて、死んだあとのことは自分にもさっぱりわからないわけだけど。

それでも、エンディングに向けて、できるだけ自分の形跡が残るもの、ゆかりのものは選んで、捨てて、できるだけ人間関係も整理しておかないと。そうしておかないからいろいろなことが起きるんだろうなあと。私も40歳になるわけだし、その辺をしっかり考えていきたい。

 

一方で、今後もますます、突然の訃報というのもあるわけで。どのパタンでも死を受け容れて行かねばならない。だからこそ、毎日、悔いが残らないようにしなくてはいけない。

永遠の命なんて要らないよね。寧ろ、あったらいいのは、エンディングが明瞭化する機能か。でも実際には、それがお互い分からないままのことがとても多いのである。

 

そろそろ、「遺書」を書きはじめておこうと思う。何回でも「推敲」し、「改稿」すればよい。それが人生だと思うから。

「赦す。そのかわり、全てを、一切を棄てる。その次の世界に行くために。」

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性的不快な事象に対する限りないだるさ

年1度では済まずめんどくさい性的なトラブルに巻き込まれるので、そろそろ自分の存在が疎ましいわけです。ということで、男性が嫌い・男性の身体が嫌い、という感覚があった数年前を通り越して、最近は女性が嫌い・女性である自分が嫌い、になりつつあります。これは周期になっているので、また戻ると思いますけれど。そして物事そんなに単純ではないんですけれど。

 

ということで、私の「好き」とか「嫌い」とかは性別に関係が無く、その人を好きということでしか成立しないのだと思います。一方で、「行為」はいくらでもできてしまうし、言葉ではどうとでもできるのかもしれないです。

 

性的不快な事象が起きるのは幼少期からで、最初は自覚も無く、以降も自業自得だと思ってきました。しかし、他の方に迷惑がかかりそうだなと思う件については、明示的対処をしていかなければいけないんだろうなとも思っている次第です。

 

面白いくらいに、やった方は悪気無いことが多く。そのたびにうんざりします。それと同時に、

(1)最初からそんなことになるとは思ってないので記録とか完全に残ってない、(2)嫌なことは考えるなと記録は消すように促されることが多い、(3)どこに相談していいかわからない、警察といっても110番なのか?、(4)そもそもいっぱい聞かれて話さなきゃいけないなんてだるいしそれで癒されることはない(忙しいのに時間泥棒される気分)、この4点によって先送りになってしまうわけです。

 

そしてまた、今日も誰かが被害に遭うリスクを抱えているのかあと思うと気鬱になりますが。

まあ40歳にもうじきなります。そんなことも年齢を重ねたら無くなるはず!きっとそう!そこからが、性別と訣別して人生が歩める。まあ、そんなことを思う時もあります。私のこういうことに対する諦めと退廃的な感覚は、もう、生まれたときからしょうがないんだと思うことで出来上がってきたんだろうな。

 

普通に恋愛させてくれ。そしてそれだけで行かせて。

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評価を嫌わないで

「ワークショップは評価が大事。」

こう思ってもらえているので、気象庁からの案件は長く関係が続いているのだと思います。前任の方が会議に参加して、はっきりこう言ってくださったので助かりました。

 

「評価のデザイン」というのは面白い考え方です。何のために誰が何を評価するのかということを考えるのは、コンセプトをクリアにしていくのにも役立ちます。

 

例えば、普及させるための防災教育パッケージなら、プロセスで形成的に評価されるべきことには(1)参加者が学べるか、だけではなく、(2)未来のユーザー(担当してほしい自治体のみなさま)が使いやすい仕様か、というのも含まれていなければならないでしょう。

 

私にお仕事を依頼していただいた場合は、この辺をきっちりやらせていただきますし、この辺をどの関係者にも徹底して理解してもらえるようお話していきます。そこは手を抜くことはありません。研究者がワークショップデザインに関与する場合、いろいろなコミットのあり方があるとは思うのですが。私は、評価は、全てのひとのためにある、というスタンスでやっています。

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