「年賀状のやりとりはお断りしています。」
「年賀状撲滅」
出すことも許されないのか…
受け取った人は処理に困るし返信を催促された感じになるのか…
年賀状を出すことに関して、実は私、小学生の頃からもやもやしている。
子供の頃、冬休み終わったらすぐ会う人になんで年賀状書くんだろと思っていた。時が経つにつれ、だんだん、「かつてお世話になった人」「すぐには会わない人」「ある時期はよく会ったけれどもう人生で会うことはないのかもしれないなと思う人」とか、出てくるんだなと思った。
人間関係っていうのは、今よく会う人だけに絞ってしまうとすごく薄っぺらいものになってしまうし、ともすれば近視眼的な思考にもつながるのではないかと思う。
もちろん、年賀状にこだわる必要はない。
年賀状が廃れゆくなら何ならできるのか。
意識して人間関係を縮小しすぎない方法を考える必要がある。
年賀状以外でも手紙って書かなくなった。仕事柄、郵便切手はよく使うがほとんどが書類のやりとりだ。
高校の同級生がこんなブログを書いていたので、別の観点だったけれどもやもやする人もいるのだと思う。
細かく、自分視点で年賀状問題の課題を考えてみた。
■そもそも住所がわからない
小学校のときは私立だったので同級生名簿みたいなので年賀状を書いた記憶がある。中学からはそれが無かったような。お別れの際に住所リストを作ったけれど今は個人情報の問題もあり、個人宅の住所を交換しないことも多いような。今はSNSの交換で代替されているんだろうか。
■自分のことを知らせたいだけなのに相手への返信のプレッシャーになる?
それでも他人がどう生きていようと知らない(知り尽くせない)というスタンスもある。人間関係が拡張していくと、あのときの誰それがどこでどうなって、とか追いきれない。
■ブログやSNSで近況発信しているので紙で出すモチベーションが保てない。
SNSも年賀状も、綺麗でポジティブなことを書かないとみたいな空気があるのは少しめんどくさい。ちなみにSNSってコメントあるときラリーしてます?
■毎年年賀状のデザインを考えるのは楽しかったが、結局ゴミ箱行きになるのかと思うと…
紙モノのデザインが好きな私にとっては毎年楽しい作業でもあったけれど、保存する人ばかりではないよね。自分も含め、そこは仕方ないところがある。
■自筆に自信がない
案外これで筆不精になる人もいるのでは。
結局答えは出ていないのだけれど、年賀状というコミュニケーションは、嫌な人はやめて、やりたい人は続けるというので問題ないと思う。