本を書く意味

博論を公刊することを研究室後輩に勧めることがあるのだが、挑戦する人がいなくて少しさびしく思っている。

ワークショップデザインにおける熟達と実践者の育成

ワークショップデザインにおける熟達と実践者の育成

 

 博論公刊に対する意識や意義というのはバックグラウンドが異なるとかなり違う。大学への就職活動を考えるとすると、単著が1本あることはとても大きい(大きかった)。私が勤務する大学では、様々な業績が点数換算される仕組みになっているのだが、そこでの学術書単著のウェイトの高さには少々驚いた。

ただ、私が博論を公刊したかったのは、何も業績のためではない。「博論をください」と他人に言われたとき、印刷・簡易製本して渡すというのはなかなかな手間である。世話になった人に、きちんとした本として研究成果を渡したいという気持ちがあった。

 

それと同時に、どこかで見知らぬ人が私の本を手に取ってくれるかもしれないという想いがあった。後進につなぎたい、時間が経ってもあるまとまりを持った思考の総体を誰かに読まれたいとも思った。それはすなわち、己は何のために研究をしているのか、己の知見は誰に届けたいのか、ということと密接に関係する。

 

ちなみに私が博論を公刊することそのものの手本にしたのはこの本である。

退職シニアと社会参加

退職シニアと社会参加

 

教育研究は市民に向けて発信されるものである。さすれば、知見は公に開かれたものであるべきではないかと思う。私ができるだけ有償ではなく無償の実践にこだわったり、企業コンサルティングではなく普及を旨とした官公庁の案件に興味を持ったりするのは、一貫して、<研究成果をどこで誰に手渡すかモデル>を考えているからだ。1人の知見は、多層性を持って提示されるべきだと考えている。

 

博論本について、今となってはもっともっと書けたんじゃないか、できたんじゃないかと思うこともあるが、1つ1つのパーツとなる研究に関しては、未だに改訂したい部分はなく、何回人前で話してもその知見そのものには満足できている。博論を本にしたことで見えた世界というのがあって、それは次に何をしたいか、何ならできそうかということであった。これは博論を書いた時点で見えていたことでは必ずしもなく、少々タイムラグがある。

 

もっとも、出版事情は厳しいご時世であり、なぜそれを世に出す必要があるのか、と、厳しい問い詰めを食うこともあるだろう。でも、そこが、研究者と一般市民とがどこで接点を持っていきうるのか、考える大きな契機にもなりうるのだ。公刊を通じて私は多くのことを学んだ。

 

私はいろいろな出版助成を見た結果、こちらの制度を利用した。

研究成果公開促進費 | 科学研究費助成事業|日本学術振興会

また、こちらのサイトは熟読した。

http://www.hituzi.co.jp/hituzi-ml/
http://www.hituzi.co.jp/howtopublish/

 

博論本を出したことで、次の本の構想が編めた。

次の編著本でも多くのことを学んだ。こちらに関しては、内容も荒削り、もっとできたんじゃないかと思うところもあり。誤字脱字も見つけておりいろいろ悔やまれる部分もある。しかし、コンセプチュアルには新しいものを提示できたのではないかと思っている。実際、「偶然、知人の父親が手に取っていた」という話を先程聞き、偶然なのか必然なのか。まだまだ、本の力を確信するものである。今後は、もう少し、前作の背景を踏まえた上での各論として、ICTを交えた高齢者向けの教育実践や、セカンドキャリア・サードキャリアを志向する高齢者の意識とスキルに関する調査を行ってみたいと考えている。

 

 1冊、1冊、本を作っていく中で多くのことを学んでいる。逆に言えば、私が多くのことを学ぶための機会としても、本が機能している。

f:id:hari_nezumi:20150711144902j:plain(撮影:金田幸三)