学際・協働

2月1日から、東京大学大学院情報学環の客員研究員に、再びなることになりました。

実は、これは私にとって、とても嬉しかったのですが、理由はいくつかあって

(1)教育学の人ではない人(で、気になっていた人)から声がかかったこと

(2)重要かつ興味のあるテーマだったこと

(3)メンバーが多彩でかつ自分とこれまで接点が全くない人ばかりだということ

(4)これからはもう少し社会学を学びたいと思っていた矢先だったこと

 

今回は社会学者の北田暁大先生からのお誘いだったわけですが、大学院時代に修士1年で一回授業を受けていたくらいの接点しかない方に声をかけていただくのは不思議でもありました。しかし、blogを読んでいただいた上で、どういう役割を果たしてほしいかという説明もしていただき、熱意も感じるオファーだったので、関わらせていただくことにしました。

 

人的資本論に基づく教育機関のダイバーシティ実装に向けた人文社会学的基礎研究」の学際プロジェクトに教育学者としてかかわらせていただくことになりました、と息子に報告したら、「それってよかったの?」と聞かれたので、できるだ簡単に説明しまてみました。

ひとりひとりが持つ違い(性別、人種、国籍、宗教、年齢、学歴、職歴など)を受け入れ、それぞれを価値として活かすことで、もっといい教育機関(例:大学)にしていこう、そういう環境をつくっていこうっていう研究だよ。

そしたら、「それは嬉しい」と返事が来ました。

私も、「だからよかったんだよ」と言いました。

 

私はこれまで、自分が中心になって始めることはあっても、指導教員以外の他人に共同研究をしようとあまり誘われませんでした。でも、それは自分が何ができるってことを、はっきり看板として掲げきれていなかったからなんじゃないかと思い至りました。

 

例えば、学際的な課題に対し、「私は何を使ってどこからどこまでが明らかにできる」、「どこまでを支援できる」、これをはっきり言えることが重要なんだろうなと。なんでもかんでもできるように見せるハッタリは、プロの研究者の間では不要です。RISTEXを経て痛感したことでもあります。背伸びしすぎない、等身大の今の自分が、どこで何ができそうか、それを把握することの大切さを感じています。そして、足りない部分について、他者を信頼し委ねることが協働には重要だと感じています。

 

読書会のFBコメントの中にこんなものがありました。

…協働の概念と参加の概念ってたぶん全然違って,協働する主体って自己完結組織だから,プロフェッショナルとして一人でやっていける人間じゃないとそもそも協働出来ない感あって,だからあの絵でも二つの同心円同士が協働してるのであって同心円を構成する各点が協働してるわけじゃないみたいな感あるんで…

 

「協働する主体って自己完結組織だから」その通りだと思います。自分を俯瞰できている人でないと、他人と協働はうまくできません。

 

共同研究にも、協働になっているのとそうでもないのとがある気がします。協働研究の場合、それぞれ何の武器を持っているか自覚している必要があると思います。そして、いつ誘われてもいいように、その武器はいつも磨いておかなければならないわけです。武器を持たないでいると、協働はできないと思うんですよね。

 

加えて、これからは、武器はできれば2つ以上持っているといいと思います。橋渡しになる言葉を知ることができるので。

 

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