知るということ

イギリスに来ている。

朝起きて眠るまで、はりきりすぎて充実している毎日なのに、それでも時間のゆとりがあるというのは、通勤時間を含む移動時間ロスの少なさという他ない。

 

大学時代から常々、暑い時は涼しい場所へ、花が咲くならそこへ、秋服を買いたいなら先に秋になる国へ、お金が無いなら物価の安い土地へ、と、移動しながら暮らせばいいのではないかと思っていた。夕日が見たいなら、夕日を追いかけて飛ぶ飛行機が良いし、海が見たくなったら海辺に行けばいい。

 

そういうことを、家族ができて、定職に着いてもなお、やはり理想だなあと思ってしまう志向性には何らかの社会的欠陥があるのか、それとも未来的なのか。しかし、私の考えは根本的には変わりそうにない。仕事というのは行きたい場所につくるもので、先に存在しているものではない。

 

新しい場所に馴染む必要はさほどなくて、ただ、そこを知りたいと思う気持ちがあればいいと思う。知るというのはものすごくエネルギーがいることなのだけれど、その過程は喜びに満ちている。

 

フランス語には、知るという意味の単語が2つある。

1つは、connaître、もう1つはsavoirだ。この2つには、当然使われ方の違いがある。

定義から見ていくと、 connaître は知る対象が外にあること、それに対し、 savoir では知る対象が内部に取り込まれることが相違点であるようです。この違いに気づくと、 savoir の持つ「できる」に近い意味、 je sais nager (私は泳ぐことができる)が泳ぐ技術を内に取り込み、能力として実践的に運用することができるというつながりで理解することもできる。人を目的語とする時 に、 connaître が好まれるのは、人は主体の外部に存在し、用意に内部化できないことと関係があるでしょう。

 

www.nufs.ac.jp

新しい場所を知るということは、知識としてそこを知ることを通じ自分を悟ることなので、なんとなく、savoirを使いたいなあと思った。

 

人についても同じことが言えて、昨日までも知っていた人をより深く知っていく過程というのがある。そこには確実に、自分とのインタラクションが含まれている。同じものを見て違うことを考えるのが他人なのならば、その違うことを話すことで、私は私を知るのだ。だからこそ私たちは、新しい土地が必要だし、他者と関わる必要があるのだと思う。

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