いろいろ
この数日、いろんなことを考えたが、殆ど、忘れてしまった。あまりにもめまぐるしくて、気が遠くなりそうだ。
大人には、「いろいろ」ある。それは私にだけではなくて、みんなにあるんだと思う。それぞれの人に紐付いた「いろいろ」は、だいたい、表には出てこなくて、秘められている。
子どものころ、「いろいろ」は、自分にだけあるような錯覚をしていた。しかし、大人になると、「いろいろ」が「いろいろ」なとこにあることを知る。だからって、知ったことを何かするわけではないけれど。見えてしまったとき、そっと蓋をしたり、目をそらしたりすることもある。
好きな人との間には、「いろいろ」話していても尽きないというか、もっと「いろいろ」知りたいとか、いや知ってもらいたいとかそういう感情が湧く。特に用事がなくても、一緒に居たいというのは、その「いろいろ」が関係している。
「いろいろ」話したら嫌われてしまうんじゃなかろうか、という不安を乗り越えて、ある種、一線を越えた仲になるというのがあるなあと思った。私には、「いろいろ」話せる人がいて、だから私は生きていられる。
私は、まだ息子とそういう関係に至れていないと感じる。そもそも小さいときは子どもと大人の間で、話は成立しない。やっと大人に近づいた彼に、昨夜悩みはあるかと聞かれたのだけれど、私は悩みを話せなかった。彼と距離が近づかないのは、私がまだ彼に、「いろいろ」話していないからではないか。
私は話すのが苦手なので、自分が何を考えて何を観ているか、何か媒介物を使って伝えようとする。昨日は、私が大事にしている場所に連れて行き、私が普段しているようなことをした。
私がどんなとき、どんな場所に「よい」を感じるのか。どんな人に、「よい」を感じるのか。彼には何か伝わったのか、私はわからない。でも、彼が私の隣にいることを「よい」と感じてくれたなら、それは私にも「よい」である。