面白さと難しさ

私は実践が好きなタイプである。動くものは面白い。

目の前のものに夢中になるので、それを遠ざけているところがある。

 

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帝京大学に就職した秋のことである。

担当していた授業は当時3コマで、春時点でシラバスに載っていなかったこともあり、どの授業も履修者は多くはなかった。

その3コマのうち、2コマを取った学生(Xとしよう)がおり、ほー、と思っていたら、しばらくして、実は私のことを知っている、本を読んでいるとその学生が声をかけてきた。

それならそうと、早く言ってくれればいいのにと言って、図書館の前のベンチでcoffeeを買って、どんなことをしているのか話を聞くことにした。

彼は私が大変昔に立ち上げに関わった、とある勉強会に参加していたそうで、面識はなかったけれど私の話を他人から聞いたそうである。さらに、私が秋から帝京大学で勤務することになったという情報を、大学院の後輩であるYから聞いて、Xは私の名前をシラバスで探し、履修をしたのだという。

 

大学というのは、そして大学教員というのは、新任だろうとなんだろうと、できる顔をしてわかる顔をして臨むものなのかもしれない。しかし、私は器用と反対の側にいる人なので、ここに来てまだ構内の配置も覚えていないし、学生と会うのも初めてなので手探りでやっていくということを宣言してしまう。

私にできることは、状況に誠実にあるということだけで、それをやめるとうまくいかなくなってしまう。

 

Xは、「森先生が来たら帝京大学が変わるかもしれないってYさんに言われたんですけど、本当ですか?」と言ってきた。

飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しかけた。大変驚いた。

「変わるというのは何を期待しているのか、わからないけれどね」と私は言った。

「もし私にできることがあるとしたら、私には何がここでできそうかを考えることだと思う。例えば、私が、短大2号館に大きなポータブルホワイトボードを運ぶでしょう。そうすると、沢山の学生がその様子を、振り返って見るでしょう?何をやっているんだろうと思うでしょう?できることというのは、そういうことなんだと思う。」

 

それから、授業でまち歩きをした際に、Xは、百草団地のサロンスタッフに、声をかけられる。ショッピングセンターで写真を撮りながら歩きまわる大学生たちは、当然、<異質な来訪者>であり、それに対するリアクションは様々である。その中でも、私たちに声をかけてきた、年輩の女性は、私たちに何か興味をもってくれたのである。

これがきっかけとなり、今、私は、JSTで多世代共創に関する研究を行っているわけで、Xとの出逢いは、私にとって大変有り難いものだったのである。教育というのはこういうことの繰り返しで、実践というのはこのようなことに溢れている。とても面白い。

 

面白さというのは、私にとってはこのようなことの積み重なりである。

面白さは偶然起きているのだけれど、一方で面白さは計画されている。

 

難しいのは、面白さは魅力を放っているのでそこにしばしば取り込まれてしまいがちなところである。面白いことにばかりこだわっていると、時々、動きが取りにくくなることがある。だから、面白いことは、時に、潔く棄てて進まなければならない。

 

面白いことを棄てることを通じて、難しいことと向き合っていく。