突然やってきて、突然去って行く。残された者は、忘れることができない。
去って行くというのは大変ずるいもので、大抵それをよく承知している。
便りがないのは元気の知らせというけれど、嘘だ。ほんとに元気じゃないときも便りはこなそうだ。
どこかから飛んでくるHeroや瘋癲の寅さんは、いつも自分からやってきて去って行くけれど自分が去った後、自分の存在を大事な人が忘却するだなんてみじんも思っていないだろう。
物理的に他人と離れたくらいで、自分の中の他人と<疎縁>になることはない。
人は、経験を共有した人同士の中で、いつしか他人の声を感じ、生きて行くのだと思う。
「在るとは対話的に交通することを意味する。... 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」(バフチン『ドストエフスキーの詩学の諸問題』、1963)
ある別れを経験し、「会えない」ことがうすぼんやりわかってきたとき、思い出したのは「死」と「おおきな地震」だった。しかしそのどちらとも異なるのだった。決意して別離する場合、そのどちらとも異なる難しさがある。
いずれくるであろう不可避な別れに任せるのではなぜいけなかったのだろうと、残される側は思うのだが、よく考えると、去るというのはどっちにとってだったんだろう。距離が離れた場合、お互いが去る側なのかもしれない。
極端な話、これまでに死んでしまった人のことを考えてみても、あっちがこの世から出ていったのではなく、こっちが逝かなかったんじゃないかとすら思うのである。
会えないという素朴な痛みや切なさが、いつしか、会わなくていいんだという安堵や喜びにも似た感情に変化していくことを経験した。
会いたくないということではなく、会おうとしなくてもいいような感情に変化させていくことで、日常を継続しようとするのだ。会えるから会おうとするのであって、もう会えないとわかるなら、思い出すだけで満足できる。
既に、私の中には過去何人かの旧友がそのような感じになっている。彼らは(SNSで見ることがあるようになる前から)おんなじ感じで、私の心を支えていた。
SNSがあったところで旧友とは交信しないという不思議がある。SNSでやり取りするのは明日明後日来週来月に会う予定が具体になりそうな人ばかりだ。
先日、大学時代の旧友を夢に見て、メールを往復した。飲もうみたいなやり取りで終わったがそのままにした。遠方に住むわけでもないのだが、会ってみたいとも思わなかった。これこそを一般的には<疎遠>というんだろう。しかし、私の中では、心の支柱として思い出す存在の1人なので、少なくとも、私にとっては縁は<疎>になっていない、睦しいもののようにすら感じるのだ。
だって会えなくなったら疎遠というならば、例えば死んでしまった子や恩師と私とはどういう存在になるのか、そのようなものに匹敵する友が居たという風に考えることはできないのか、縁とは会えなかったらおしまいというならば随分、即物的で俗っぽい気がする。SNSは、本来、精神でつながる<疎>の縁を、写真やらエピソードの共有をもって、あたかも物理的にできているように感じさせる仕組みなのかもしれない。追憶の反対側にあるような感じがする。
体を持ってその場に行くことの良さ、直に声を聞くことのすばらしさ、つまり対面コミュニケーションの意味に反論する気はない。生き物に寄り添うことのすばらしさ、温かみのある身体。しかし、ある密度でそれを行った他者に対しては、その存在がどこにあるかが確認できる程度でも良い気がする。
私が人付き合いを面倒だと思うからこその言い訳、負け惜しみだろうか。
人はそんなに簡単に他人を忘却できないと私は思う。
時間が経ってみないとわからないが、時間をかけて、それを知りたい。
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今日と明日とが晴天でありますように。
強い風が吹かず穏やかな日でありますように。