もうひとつの 8.15

心地良い風のなか午前中に家を出た。昼にとんかつを食べた。

『NHK アインシュタインロマン3 :光と闇の迷宮』(1991)を見ながら、大正自由教育の本を、覚悟を決めて再読・精読。

 

やっとここまできた。科学史など、さらってから向かってよかった。大正期「成城小学校」とか「文化学院」とかができた頃のことが、身体をもって腑に落ちた。このネタで講義できそうなくらい詳しくなった感。

 

ブルジョワの〜との批判を受けながらも、一部の私立学校が日本で「自由な」教育として立ち上がった大正期。その流れは今もなお脈々と続いている。

 

イギリス産業革命とか、ダーウィンとか、アメリカ哲学とか、プラグマティズムとか、第一次世界大戦とか、第二次世界大戦とか、GHQとか、日本で最初の「ワークショップ」って実はアメリカ主導で行われた教師教育研修だったんだよなあという話とか。日本における社会教育と生涯学習とのある種のバトルっぽい様相とか。

 

それに対する、自分なりの見解、批判的検討。なんでこういう研究を始めたのか、私のなかでワークショップをどう定義し考えたのか、進めていきたいのか。この数年やってきた研究をどう位置づけて、私はどこに向かいたいのか。頭のなかにすっとおさまってきた。

 

そんな、8月15日。

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1年間、審査での諸先生方のコメントの意味と自分が何をどうすべきかを考え続けてきたけど、もう、自分のやってきた研究に、自信と確信を持てる。曖昧な表現ではなく、きちんと改稿できる。

 

借り物ではない言葉にするために調べ、読み、考え抜けたことは、かなり今後にとって糧だぞと思った。さっさと終えたかった気持ちもあったけど、しっくりこないままでは、手も心も硬直して進まなかったのだ。やるべきじゃないことなんてなかったし、必要なことを考えていたっぽい。たぶんそんなにまずくなかった。

 

博論出したら腰を据えていろんな投稿論文を書きたい。

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その後、アクションリサーチについてもう一度考えたかったので、『心理学評論』の質的心理学の源流に関する論考(やまだようこさんが書いたもの)を読んだ。今やっていることと、論考の間につながりを直観するも、線を引きながらでないと難解だったので明後日再読することにしていったん中断。

 

電車で鶴見俊輔の『アメリカ哲学』を読みながら(この本もどんどんぼろくなってく)帰宅してお風呂でパースのことを考えて、大学で「とりあえず哲学科」行っててよかったなあと思って。自分の強運を喜びながら、でもゼミ恩師は既に他界したのでもう逢えないのでお礼を言えるということもないなあとか考える。

 

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そして布団にくるまって、少し疲れたなあと思いながら髪が乾くのを待った。新しく買った入浴剤がとてもいい香り。ローズヒッポファン。香りも化粧水も、人生も秋にシフト。