夕方、秋を求めてひょこひょこ。
暦というのはよくできたもので。事前に意識していれば、より感度が高まる。小さな変化をたくさん受け止められるというものだ。
季節は先どる、そうでない者は無粋、と母に教わっても、夏に後ろ髪をひかれてプールに行きたがった。そんな子供の頃を思い出す。
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最近、思い出したことがある。
小学生の頃、理科の宿題で、「きせつだより」というのを毎日つけていた。3年生から卒業まで。1日のなかで季節を表すものを探して所定の表に箇条書きするというもので、私はそれを探すことに明け暮れていた。
「きせつ」を探すために昼休み教室から出ていって、気がついたら下校時間過ぎても崖下にいるなんてこともあった。最初は自然のなかでの変化ばかり見ていたけれど、よく考えると人のふるまいや街の趣といった人の所業にも季節は満ち溢れていた。(実のところ、それこそが「自然」なのだ。)季節の変化は意識すると、それを自分の行動に反映させることもできるので、やりだすと本当に毎日きりがなかった。だから毎日、所定の表が刷られた藁半紙をおかわりしていた。その都度書き留めるのがほんとうに大変だった。
おかげさまで理科室の先生とは、とても仲良しだったけれど。毎朝挨拶しに寄っていた理科室の武田先生はどうしているだろう。授業の内容はあまり覚えていない。そのうち、何かの機会で思い出すかもしれない。
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最近、夏虫の亡骸を見飽きてきた。
諸行無常である。ところで生誕日って、おめでたかったんだっけ。
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秋というのは生命の息吹を感じるという時期ではなく、寧ろこれまでの底力のようなものを魅せつけられるきがする。
今日見た、新牛蒡のすがたの、美しさと言ったら。