怪しい学びの時間

昨日、SFCの加藤文俊先生と、法政の長岡健先生と3人で新宿西口のBarで飲み食べしながら、雑談+ミーティングをさせていただいた。大変刺激的な時間で、途中も終わった後もいろんなことを考えた

※お二人と一緒に、7月4日(水)「Educe Cafe : なぜワークショップ?」を開催する予定です。


ラディカルな話題として、「ワークショップとか、カフェイベントってもう要らないんじゃない?」みたいな話もした。これは、ちょっとした皮肉、問題提起のようなものである。

なんとなく交流できてしまう、そういうきっかけがあるならば、それでいいはずなのだ。でもそれがない。それがないから、例えば「ワークショップ」、例えば「カフェ(イベント)」、というかたちになっている。
 
そう呼ばないのであれば、何と呼べばいいのか。その代替がすっと見つからない。だからこそ、甘んじて私は、「ワークショップ」「カフェ(イベント)」という言葉を受け容れようと思うのだ。

ただ、ワークショップやカフェといったノンフォーマルラーニングの活動が、フォーマルな場面同様の健全な社交になっていくのなら、それは猥雑から生まれる面白さ、創造的な時間とは遠くなっていくのかもしれないとは思う。
 
怪しいからこそ魅力的だし、その怪しさこそが、学びと創造につながる大きな力を秘めていると思う。
 
昨日、一つ思ったのは、怪しさの中にも、学習者には品と秩序が必要なのだということ。そこに必要なのは、設計者が事前に決めた詳細な規則ではない。設計者が示した大きな指針に対して、参加者が過ごす中で共有し構築していく、文化のようなものだ。そして、設計者も参加者も、そこでは等しく、学習者である。
 
道筋を事前に明朗にしてはいけない。それでは、猥雑が生まれる余地がない、つまらない。わからないことを許容し、含有していく、それを可能にするための鍵になるものは何か。それを探したい。