「遺書」を書き始めた。

何を呑気にと君は笑うかもしれないね。

呑気に暮らしているよ。

特に変哲もない、いつものバルでこれを書いている。

 

研究をする際に道具が必要かどうかという問題があって、私は幸い、身体があれば研究活動ができるようなことをしている。それこそ、究極にlocalなことのようにも思う。

勿論、インターネットが無かったら私は孤独になってしまう。だから、研究を継続するための外側、精神を安定させる仕組みとして、何らかのデバイスが必要になると思う。湧き上がる感情を書き留めるには手はあまりにも遅く、口はあまりにも動きが拙い。未だ言葉の国に棲んでいるから、パソコンに出逢って、インターネットに出逢って、本当に救われたと思っている。話をするために、他人を引き止めなくていいしね。

 

先日の議論に、きちんとした形でまだ答えられないのは、まだ例の本を読んでいないからなのだけれど、例の人は論文を最近は書いていないらしく、そして有名な三部作(少し古い)の和訳は無いそうだ。Kindleで洋書の専門書をさくさく読みこなす語学力が無いことを恥じるしかないけれど、そんな力があったらここで仕事をしていないかもしれない。

そういえば「イタリア語」だけではなく、忘れないようまた英会話を始めたけれど、英会話がしたかったのではなくて、実際には「英語」を学びたかったのかもしれないと最近気づいた。私は、これまで、言葉とすら向き合っていなかったのだとも思う。君の言うように、私は本当にナマケモノだから、適当にやっていくしかない。まあ、適当にやっていくことにかけては、負ける気はしないよ(笑

 

頑張ってやっていく30代が終わった気もする。それで、結局、残された時間にやっていきたいことというのを考えていたのだけれど、それは今まで、読みこなせていなかったものを読んでいったり、今までとっかかったことをもう一度考えてみることだったんだ。案外、つまらない人間だなと思うかもしれないけれど、何足飛びにも背伸びして行きてきた私にとって、あまりにも荒すぎた世界というのがあって、私は、そういうのを丁寧に丁寧に、見て、既に縁のあった世界を大事にしていきたいと思ったんだ。

 

それと同時に、自分というものの外側に、自分はどれだけアクセスしうるのかということをもう一度考えてみたくてね。私は、今まで、少しでも他人と関わってきたのかしらと。私は、白状すると、自分以外の人には関心を持てないのでね、実際のところ。

つまり自分に全てが帰着するわけで、でもそれは大きな可能性を持っているとも思う。「自分ごと」にしていく力には、少し自信があるんだ。だってそうしないと、生きていけないから。

 

働いていても、自分のことしかしていない気がしているし、こうやって世界に関わっているふりをして、やっぱり「自分の世界」を生きている。それって、限りなくlocalなんじゃないかなと。はぐらかしたみたいになってしまって申し訳ないけど、春休みには、件の本も読んで、何か書いてみるつもりだから。

 

そんなことで、毎日、整理をしているこれらが、私が「遺書」を書き始めたという証。毎日、悔いの無いように生きていこう。

それは、誰のためでもなく、自分のために。

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