大人の孤独

blogを楽しみにしているとかなんとなく読んでしまうとか言ってくださる方もあり、それがさほど対面関係がない方である場合もあり。でも、そういうことを言われたとしても、これを書いているのは私が私のために、であるというスタンスは変わらない。

 

私は最近、かためてしまった未来に押しつぶされそうになっている。

回っていた思考は衰え、負の感情ばかりが湧き起こる。ものすごく疲れを残したまま新学期を迎えている。伝えたい言葉は届いている実感が持てず、やり過ごす技術ばかりがうまくなっていく。

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そして、私はこの1年、何をしてきたのだろうと考える。

毎日、そこにあるものに必死で食らいつき、日々喜び嘆き苛立ち、そうしてきた。ただ、この数日は体力がなく、日々に食らいつくことすらできないでいる。

 

だいたい、きっかけになるのは子どものことや学校のことで、私にはそれがものすごく負担になっている。子育てに向いていないのに子どもを産んだ罰だと過日言われ、非常に腑に落ちた。ああ、私は今、罰を受けているのかあと。

 

好きなことをしていると罰を受ける。

それが世の中というものなのだろうか。

 

夏頃から、突然、大事に思っているものを叩き割りたい衝動に駆られた。それは発作のようなものなので、本心ではないと思う、思いたい。実際、その衝動で絶縁してしまった人が数人あり、後悔している。実際、<疲れる関係>には嫌悪があって、<関係>を継続したかったわけではないが、<人>そのものは大事だったはずなのだ。つまり、今は、<疲れる関係>を維持できる状態にない。目の前に迫ってくる約束に苦しみ、約束をする自分に苦しみ。一方でその約束がきっと将来を安定したものに導くと信じ、しかし苦しんでいる。

 

例えば、体調が悪いというと、「私もこの前まで体調が悪くてね」「私も◯◯障がいでね」とか、そんなことを言ってくださる方がいる。それはきっと慰めてくださっているとわかっている。わかるよと言われたとき、何か噴き出しそうになるのを抑え込んでいる。誰かに話を聞いてほしいけれど、話しかけることができない。なぜなら、他人だし他人には別の悩みがあって、そんな時間無いことも、そんな余裕ないこともわかっているから。

 

例えば「君は自分だけ辛いと思っているのかもしれないけれど、君だけが辛いんじゃないんだ。」と言われたこともあるし、「お前は何が言いたいんだかさっぱりわからない。愚痴を聞いてほしいのか?」と言われたこともある。言ったら相手をよりしんどくする、だったら黙って1人で苦しんだ方が良いんだ。

 

あれ、これは私が子どもに教えていることと全く逆のことではないか、と思う。

 大人は孤独である。