連休が終わって心底ほっとしている。
授業で声を出すと気持ちがすっきりするし、1コマ1コマ終わっていく度に、達成感がある。書物には書物のやりがいがあるのだけれど、行き詰まったり集中できなかったりしても、授業というのはパンクチュアルにやってくる。そして、これがびっくりするほど、疲れていても授業はできる。教室に入ると別のswitchが入るようだ。学生がイレギュラーな反応をしてきても、だいたいチャイムと同時に機材電源を落として撤収できるくらい正確に授業は進む。
慣れだろうか。私はここにあと20年通うという現実を受けとめきれないでいる。おそらくそれはありえないことだ。
月曜日から木曜日までは授業をしているので、私にとっての週末は木曜日である。金曜日は家族も居ないので自由にスケジュールが立てられる。いわゆる研究日というものだ。土日とつなげて出張に行くもよし、普段まとまってできないことをしてみてもよし。
木曜日の5限を終えて研究室に座ると、動きたくなくなる。さっさと帰らないとバスが減るのだが。座りやすい椅子を買ってしまった功罪である。毎週、当たり前のことが当たり前のように起きる。
私だってこの10年、何も成長していないよと思った矢先。案外、対社会的にはそうでもなかったのかもしれないと思い直す。
先日、Facebookを見ていて、待ち合わせの仕方について書いている女性の記事を見て苦笑した。私はたった10年前は、待ち合わせに1時間、2時間遅れることはざらだった。だから待ち合わせ場所は室内である必要があった。行かないこともよくあった。人が待っているという状態に気が滅入ることもよくあって、それで行けなくなってしまう日があった。
この記事思い出した。懐かしい。
今は待ち合わせをすることの面白さと体験の多層性に気づいてしまった。
端的に言えば、大事でない相手は室内で待ち合わせたいし、大事な相手は屋内屋外問わない。自分から捕まえたい。
待ち合わせを駅とかモニュメントの前でするというのは大変良くて、それは緊張感につながる。雑踏の中で相手を見つけ出したときの喜びを知っている人からすると、効率的で快適な待ち合わせは記憶に残ることはない事務的なものかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながら、あと1時間半、バスやら電車やら揺られて帰宅するのを引き延ばしている。
初期のEduce Cafeの写真を見つけた。2007年である。
他界された北沢猛先生が写っている。私の本質はこの当時から特に変わっていない。フィールドに通って会いたい人を捕まえた、そういう記憶。