親とものの考え方が違うというのは、昔から感じていたことなのだが、反論できるロジックを持たない10代の頃は黙ってやり過ごすしかなかった。あるいは、親の恩恵を受けて育てられているという時代に、思想の違いに言及することは、タブーだと思っていたかもしれない。
私は、政治信条について、正面から両親と話すことを控えている。だから、ここでもそれについてはっきり書く気はなく、日記を見て自分が思い出せる程度にしたい。
この記事を読んで、デジャブのような感覚を味わった。
普段の生活にも、思想というのが垣間見えてしまうことがある。今年の年明け、会食の際、移民政策について私と父の考えが全く異なっていることがわかった。私は、そこで会話を切った。
幼い日と同じ、それが私のルールだ。勿論、私の思想に変わりはないけれど、その日は父が支払いをするわけで、そして年に何回も食事はしないし、私たちは生きている間にこれから何回食事をできるかわからない。だから、喧々諤々、議論する気など無かった。そこには息子もいたのだが、さあ、私と父の会話を息子はどう思って聞いたのだろう。何も気が付かなかったか、あるいは、溝を違和感として感じてしまったか。私は、議論する姿を見せるべきだったのか。
世代の差というのが家族にはある。必ず年長者の論理が正しいということもなく、ただ、そこには立場の違いというものがあって、それがしばしば発言力の違いにもつながっていて。だから、私はいつも何かを諦めている。だから、こんなところに書いている。ただただ、憂鬱だということを飲み込みながら。私はできることをやっていくしかないと思っていて、そのひとつの実現方向が、今の仕事にある。
写真は「ラーニングフルエイジング:スライド展」。2016年1月6日、金田幸三撮影。本展示はJST-RISTEX「