時の単位

今日はどうか、昨日はどうか。

そういうことの積み重ねの先に明日があることは間違いない。けれど、大きな仕事をするということは、少しだけ、時の読み方を変えることでもある気がする。

 

先日、ご縁があって、とある企業の研究会で講演をさせていただく機会があった。とても手応えある2時間になった。しかし、その手応えの背景には、これまでの関係性があり、そして、私が先方を知るプロセスがあり。だからこそ、話し方、話す内容を、充分、カスタマイズできたのだと思う。

 

その企業と初めて関わったのは大学院生の時だったので、聴衆の中には、私が学生時代にお会いした方もあった。その頃の私が、彼にどんな風に見えていたかはわからないけれど、なりゆきで立派なお店ですき焼きをご馳走になったという想い出がある。興味があって、聞いてみた。

「まちづくり、再開発の仕事というのは、もちろん、終わりはないというのはわかっているのですが、だいたい、どのくらいで一段落するものなんですか。」

「20年ですね、昔は10年くらいだったんですが。」

それから、少し書けないような話もしたのだが、兎に角、その、20という数字に、圧倒された。これまで10年やってきた案件がかたちになりそうだとか。気の遠くなりそうな話だけれど、それをやっていく人たちがいるんだなあと関心した。

 

私たち教育研究だって、本当はもっと長いスパンのことを考えている必要があるはずで。今日どうだ、半年でどうだと、勿論、刻々と変化は見られるけれど、でも人が育っていくのも大きな時間の中で、ゆったりと構えてみていけたらもっと面白い気がしていて。だから私はキャリアヒストリーとか、長期スパンでの熟達とかに関心があるんだろうなあ。

 

自分自身をとってみても、確かに、過去は現在につながっているのだけれど、時々、そのつながりが見えなくなって、足元が不安に思えることもある。昨日が今日につながっているかは疑わしい。もう少し大きいブロックで考える必要がある。

 

この前の読書会にきた高校生も、大学生も、大学院生も、私は彼らと出逢った時のことをよく覚えていた。中には付き合いが長くなってきた人もいる。私は、これからもずっと彼らを見ていけたらなあと思う。それ以外でも、勉強会やイベントや、授業や、出逢った人の中で、その後どうなっているかなあと思うことはよくある。真面目にやったり、うまくいかない時期があったり。いろいろあるかもしれないけれど、きっと、長い時間の中で考えれば誤差のようなことも沢山ある。

 

これから、後半の人生では、長いスパンで仕事ができると思う。大きな仕事と言うべきかもしれない。今度は、その大きな仕事、長いスパンの中に、どのような小さなステップを見出すか、もしくは見せていくか、というのも腕の見せどころかもしれない。

 

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(写真は、トレポーターというスウェーデンの多世代型コレクティブハウスの中にある共有のこどものあそび部屋。筆者撮影。)