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参加と協働

引き続き、「参加」という概念をめぐって議論をしています。

harinezuminomori.net

読書会では、FBグループを作っており、そこに私は昨日このような投稿をしました。

昨日から考えていたのは、「どこからが『参加』?」ということです。この指とーまれ、とやって指を掴んだ人は参加でしょう。でも、私たちは、その指を立てた人を参加と呼ぶか、もしくは当人は参加と考えているのか。

つまり、リーダーや企画者は、参加という意識をどの程度持っているのかという疑問が湧いてきました。これは逆さから考えると、既に、<参加する人><参加 される何かの側の人>というクラスタがあるのではないか。そして、そのクラスタは、移行があっても混合はしないのか?ということです。私は、そこにいる人が新しい価値を生み出すもしくは価値にコミットすることに関心があるのですが、これを従来の「参加」という言葉がどの程度表現可能なのか、概念として別なのか。あの本の中で、5章が浮いて見えた理由も、その辺と関わっていそうです。

私は、そこにいる人が新しい価値を生み出すもしくは価値にコミットすることに関心があるのですが、これを従来の「参加」という言葉がどの程度表現可能なのか、概念として別なのか。あの本の中で、5章が浮いて見えた理由も、その辺と関わっていそうです。

 

その後のインフォーマルな議論の中で、参加というのはあるところに入るというActionを指し、その後の「参加し続ける」を内包しなケースがあるのではないかということを思い至りました。つまり、「入る/入らない」という二元論に回収されてしまうことがあるわけです。

もちろん、参加には段階があると書かれている文献もあるのですが、前者の価値観が支配する部分が大きいことは、現実として受け止めざるを得ないのではないかと思っています。

 

現在、私は職務で、学習者と成績評価について研修で話すこともあるのですが(先ほども話してきたばかりです)、形成的評価について、いわゆる「評価」の中にそのような考え方があるということをどの程度の方が意識しているか。

参加を学習と捉えるという状況論的視座がありますが、一方で、それは、参加の過程あるいは参加の深さ、多様さを見ていく方法論が必要であり、それなくしては、参加は「ある点」として認識されてしまうのではないでしょうか。これは、日本語の「参加」が「参り加わる」という漢字を当てていることからも推察されます。

 

英語では、join とparticipate(あるいはtake part in )は明確に区別されるべき概念だと思わます。後者は、役割を担うことを示唆しますし、その役割は与えられたものである場合と、発見される役割があると考えられます。

 

読書会課題図書の中では、第一章の最後にこのような記述があります。

さらにいえば、「参加」には発展性がある。参加することの楽しさを知れば「参画」する意欲が生まれる。他者がつくった計画に加わることは「参加」だが、計画の策定段階に自ら加わることは「参画」になる。「参画」の動きが活発な分野では、もっと高次元の現象が起こり得る。それが「協働」(コラボレーション)という活動である。

参加→参画→協働

これが言葉遊びではないということを、さまざまな分野における参加の潮流を紐解くことで検証していこう。

「→」というのは、順接することを指すわけですが、私はまだ、この3つの単語の中に、順接があるとは思えていません。「参加」→「参画」という流れは、教育実践を観察する中で一部の中に頻繁に起きる現象です。しかし、「協働」と「参加」は別パラダイムとして語られる、現象が似て見えるが立脚点が違うものとして考えた方が、私には理解しやすいのです。教育学者としてもう少し踏み込んで言うならば、「参加」と「協働」、その支援原理は大きく異なると考えています。

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