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読書会。あるいは、私はなぜ学校に通ったか。

学校に行かない息子の話を先日書いた。

 

私は、彼に「学校に行く理由」を明確に説明することができない。

私自身には、学校に行く理由は特に無かった。しかし、私には学校に行くことに明確な目的があった。それは、「私は大学に行く」だった。

手前の学校を全て終えるということが、私が行きたい場所に行けるパスだと思っていた。これを幼稚園の頃から思っていた。だから、あまり学校に行くことに疑問は無かった。中学のとき、高校は行かなくても大検があると知ったので、高校に行くことは疑問を持ったけれど。

 

では、私は、何故、大学に行きたかったか。

それは、裕福で安定した生活のためでも、一般的教養志向でもなんでもなかった。私は、大学はとても楽しいところだと思っていた。私は、母に連れられて、幼稚園のとき、研究会に出たことがある。勿論、その辺に座っていればいいという感じで、明治大学で開かれる現代詩の研究会にに行ったのだけれど、そこでは煙草を沢山吸う男の人がいて、母もいて、1篇の詩について議論をしていた。たった1篇の詩について、何時間も大の大人が議論するというのは幼心に大変不思議な光景だったが、次第にこれほど面白そうなことはないのではないかと思えてきた。

 

1つのものを読み、その経験を議論するということの面白さが、私にとって大学とは面白いところであるという原風景である。当時、父母は生計を立てるため私塾を営んでいたのだけれど、そこで寸暇を惜しみ勉強する高校生が、みな大学に行くために勉強しているということも、私の妄想を掻き立てた。

大学というのはパラダイスなんだと、私は思った。だから、私は、できるだけ速やかに大学に行きたいと思い、黙々と小学校、中学校に通った。

 

小学校では、本を読むことが好きだったが、だんだん読書量が人より多くなり、あれもこれも読むことに忙しく、他の人と話すことがおざなりだった。そんな私に、図書室の司書の先生が、あなたは新しい部活を作ったら?と提案してくれた。「読書クラブ」だ。その先生は、1冊の本を誰かとともに読むこと、本について議論することの面白さを教えてくれた。そして、それをどのように運営すればいいのかも、教えてくれた。

 

中学になると、図書室では数々の読書会が開かれた。文芸部の主催もあるし、自主的にやるものもあり、フランス文学や芥川・太宰・川端から、ニーチェキルケゴール柄谷行人マルキ・ド・サド。最も印象に残っているのは蓮實重彦氏の著作を読む企画だった。

 

学校の授業を特に覚えていなくても、読書会のことは覚えている。読書はそれだけで楽しいけれど、読後に議論したり交換日記をしたりすることはそれを遥かに凌駕する。こうして、私は、なんとなくやり過ごし、大学進学を果たすわけだが、1年の4月、履修した一般教養の心理学の講義が、90分ずっと教科書を音読されるものだったことに絶望した。そして、5月の連休以降、私の出席は近所のカフェに逆戻りする。

 

講義をする立場になって今、私の講義は少しでも探求の入り口でありたいと思う。1冊の本をともに読む楽しさを、伝えられる大学教員でありたい。今日はそんな想いで、物理的には薄いのに深読みできる本をタネ本にして読書会を開催した。奇しくも、本書のテーマは「参加」であり、読書会にお似合いだ。

harinezuminomori.net

 参加した高校生が、閉会後、私に、「それでも『参加』は解なのではないか」という趣旨の問いかけをしたので、私は何かに参加をすることが何かに参加しないことになるという現象についてどう思うか尋ねた。おそらくこのような問答が生起することが、読書会の面白さである。来週まで、お互い、もやもやを育てて時を過ごそう。

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 (この写真は、フランスで参加した哲学カフェの様子を私が撮ったもの。)