やり抜く力 、やっていく力

まとまりがないのですが、最近考えていることを書きます。

 

子供のころ、「やればできる、できるまでやる」という標語を掲げている担任がいて、とても疎ましく思っていました。彼女の思想は、できることをゴールにしているので、やっていること自体が評価されず、それはできたのか?という問いに還元されてしまっていました。だから、やったのにだめでしたと謝らなければならなくなる児童が沢山いました。私は、この状態にあまり納得がいきませんでした。

結果が全て、という考えも理解できるし、結果しか評価されない社会があることもわかります。しかし、教育現場でそれをするのはどうなのかと、子供の頃にも思っていました。

 

先日、話題になっていた本を読みました。

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける

 

面白い本でした。しかし、疑問もあります。

私は、やり抜くという気持ちには敬意を払うのですが、結果がすぐに出ない闘いも世の中には多くあるわけで、持続可能性を高めるためには、「(それでも)やっていく力」が大事なのではないかと思っています。

この本は、心理学の方向からアプローチされており、やり抜けた人とやり抜けていない人を比較するスキームで進みます。しかし、実際には、やり抜くという結果を出せた人の秘訣からわかるのは、勝者の論理ではないかと思いました。

 

勿論、才能に関係なく誰でも「勝てる」というコンセプトは、多くの人にとって魅力的でしょう。しかし、一方、教育学者として考えるとき、やり抜けないという課題を抱えている人をどのように支援するか、もしくは、やり抜けないという現象の中には何があるのか、そこが私の興味の射程になるのです。

もちろん、「やり抜けない」は複雑な因子が絡み合っていると考えられますし、それを一つ一つ解くことにはあまり関心がありません。

 

私が提案したいのは、「やっていく力」です。

「やり抜く」は、バスケットボールのゴールにシュートすることのイメージですが、「やっていく」とは、ゴールではなくビジョンに考え方をシフトします。つまり、ボールをできるだけ遠くに投げよう、とか、ボールをあっちに投げよう、とかそういう考え方です。そして、その評価というのは、ゴールから評価されるのではなく、ビジョンと現状とのインタラクションによって規定されるものであればいいと思います。

 

つまりあっちをどれだけ向けていたのか、みたいなことを考えているということです。

 

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